[#表紙(表紙.jpg)] GEN 『源氏物語』秘録 井沢元彦 目 次  第一章  第二章  第三章  第四章  エピローグ   参考文献リスト [#改ページ]   第一章      一 「角川《かどかわ》君、ちょっと私の研究室に寄ってくれないか」  そう言われて、源義《げんよし》は振《ふ》り返った。指導教授《しどうきようじゆ》の折口信夫《おりくちしのぶ》が立っていた。 「はい、わかりました」  源義は頭を下げ、先に立って歩いていく折口教授の後に従った。  源義は、東京渋谷にある國學院大学の学部の二年生であった。ただ二年生とは言っても、さまざまなところを放浪し国文学の研究を続けてきたので、年齢はもう二十四歳になっている。教室の中では最年長である。しかし、そのことが教授の信頼を得る結果になった。  源義は文学経験が豊富で、学術論文も既に三本ほど書き、十代の頃は句作に熱中していた。号《ごう》も持っている。水羊というのである。ただし、俳句はこの頃やっていない。その代わりに、歌人|釈迢空《しやくちようくう》としても有名な折口教授の主宰する短歌集団「とりふね」に入って、最近は和歌を作るのに熱中している。  吹きさらしの石畳にアーチ型の屋根があるだけの渡り廊下を渡ったところに、研究棟がある。折口教授の部屋は、その二階であった。  折口は中に入ると、デスクの前の自分の椅子《いす》に腰掛け、その向かいのパイプ椅子に源義を座らせた。 「御用《ごよう》は何でしょうか」  折口が一向に用件を切り出さないので、源義のほうから先に言った。 「君は、『源氏物語』については詳しいかね?」  と、折口はガラス窓を通して下の校庭を眺めながら言った。 「いや、どちらかというと詳しいというほどではありません。私は、やはり中世の語り物のほうが——」  源義は言葉を濁《にご》した。確かに中古文学よりも、中世文学のほうが興味があるし、現実に学術論文もそちらの方面の研究が多い。 「君は源義だからな」  と言って、折口は笑った。 「源義だから、やはり源義経《げんぎけい》が好きなんだろう」  源義は、当惑してうつむいた。折口教授は、時々そういう冗談を言って学生をからかう癖があった。  髪の毛は真ん中から分け、縁なしの眼鏡をかけている。体は痩《や》せているが、背は結構高い。そして、特徴のある甲高い声で喋《しやべ》る。声がよく通るために、折口教授の講義は、校庭の隅からでも聞こえるなどという冗談を言う者がいるぐらいだ。  これに対して、源義は中肉中背で、どちらかというとがっしりした体つきである。額は広く、少しはげ上がっていて、それに度の強い黒縁の近眼鏡をかけているものだから、お世辞にも美男とは言えない。しかし、乱杙歯《らんぐいば》のせいもあって、どことなくその顔には愛嬌《あいきよう》があり、教室の人からはみな好かれていた。 「そうか、君は源氏に詳しくないのか。それは、ちょっと困ったね」  折口はあくまで笑顔で、 「では、和辻哲郎《わつじてつろう》氏の『源氏物語』論も知らないのだろうね」 「いや、それなら知っています」  源義は言った。 「ほう」  折口は左手で縁なし眼鏡の弦《つる》を軽く持ち上げ、源義の目をまともに見た。 「それは、こういう論文ではなかったですか。つまり、その、『源氏物語』というものはそもそも最初は五十四帖ではなく、宇治十帖《うじじゆうじよう》を別にした四十四帖も当初から成立したのではなく、ある原型があって、それに対していくつか後世の人間が作ったものが挿入されていったという考え方だったように思います」 「そのとおりだ。まあ、一言で言えば、後期挿入論とも言うべきか、それとも『源氏物語』多作者論と言ってもいいだろう」 「先生は、どうお考えなんです?」  源義は質問した。  折口はひと呼吸置くと、 「そう、私はどちらかと言うと、そういうことがあっても不思議はないという考え方だな。なぜなら、『源氏物語』というのは通読してみると、ところどころに辻褄《つじつま》の合わないところがあるからね」  源義はうなずいた。それは、源義も初めてこの物語に触れた時に感じたことである。言うまでもなく、『源氏物語』とは世界最初の、そして当時においては世界最大の大長編小説である。五十四帖ある。作者は平安時代、宮廷に仕えた女房の紫式部《むらさきしきぶ》だと言われている。そのため、別名『むらさきの物語』、あるいは主人公の名前をとって『光源氏《ひかるげんじ》の物語』などと言われ、『源氏』あるいは『源語《げんご》』とも約されることがある。  紫式部は西暦一〇〇七年(寛弘《かんこう》四年)頃、当時の一条天皇の中宮《ちゆうぐう》(皇后)の彰子《しようし》に仕え、その頃すでに『源氏物語』の作者として知られていた。『源氏物語』は世界最初の長編小説であると同時に、作者の生前から注目され、一世を風靡《ふうび》していた小説だったのである。そのことは『更級日記《さらしなにつき》』に、作者の菅原孝標女《すがわらたかすえのむすめ》が、どうしてもこの物語を読みたくて、全巻手に入れた時には、天にも昇る気持ちだったと書かれていることからも明らかだ。  五十四帖の粗筋《あらすじ》は、だいたい次のようなものである。  ある帝《みかど》の御世《みよ》、その帝の寵愛《ちようあい》を一身に受けた美女|桐壺更衣《きりつぼのこうい》が、玉のような男の子を産み落とす。ところが、更衣というのは中宮(皇后)や女御《にようご》より下の位であるために、他の妃や女官たちの憎悪と嫉妬《しつと》に悩まされ、その挙げ句、桐壺更衣は若くして死ぬ。そして残された帝は、その遺児である皇子を官途《かんと》に就かせるために、源《みなもと》の姓を与えて臣籍降下《しんせきこうか》させる。その彼は、母桐壺の血を引いて光輝くように美しかったことから、光源氏という愛称で呼ばれることになった。この光源氏が成長するに従って、次々に女性遍歴を重ねていくのが『源氏物語』の大まかな展開である。  空蝉《うつせみ》、末摘花《すえつむはな》、夕顔、あるいは朧月夜内侍《おぼろづくよのないし》、六条御息所《ろくじようのみやすどころ》といった宮廷の令嬢や未亡人、あるいは地方貴族の娘といったさまざまな女性が彼をめぐって愛情の葛藤を繰り広げる。この中で最大の問題は、父の帝が新たに迎えた更衣|藤壺《ふじつぼ》があまりに亡き母に似ているので、光源氏がその藤壺と、母恋しさのあまり密通してしまうことにある。藤壺はやがて月が満ちて、玉のような男の子を産み落とす。それは、もちろん源氏の子である。ところが、父の帝はそんなことは知らずに、生まれた子を自分の子と信じて可愛がるのである。  その間にも、源氏はさまざまな女性と逢瀬《おうせ》を重ね、母更衣のライバルであった弘徽殿女御《こきでんのにようご》の妹(朧月夜内侍)とも通じてしまう。しかし、それはやはり極めて危険なことであった。彼の後ろだてである父の帝が亡くなってしまうと、その後を弘徽殿女御が産んだ朱雀帝《すざくてい》が継ぐことになり、源氏は身の危険を感じて須磨《すま》に自ら身を隠すことになる。ここで彼は、いったん中央政界から失脚するのである。  しかし、彼を愛した故帝が朱雀帝の夢に現れ、その処置を詰《なじ》ったこともあって、源氏は再び都に召還されることになった。しかも朱雀帝は、三十二歳の若さで弟の冷泉帝《れいぜいてい》に位を譲る。この冷泉帝とは、実は源氏と藤壺の間に生まれた不義《ふぎ》の子である。そして、冷泉帝はその事実をやがて知ることになる。それを知った冷泉帝は、実父源氏を太政大臣《だいじようだいじん》に任じ、さらに准太上天皇《じゆんだいじようてんのう》という臣下を越えた地位を与える。これが源氏物語の、いわば第一部というべき光輝に満ちた半生である。  ところが第二部に入ると、この源氏の運命は次第に暗転する。源氏には最愛の正妻|紫《むらさき》の上《うえ》がいたのだが、准太上天皇となった源氏には、その格式に相応《ふさわ》しい妻として内親王(女三《おんなさん》の宮《みや》)が降嫁《こうか》してくることになる。これが結局、仲|睦《むつ》まじい源氏と紫の上の仲に亀裂を生じさせることになる。そして、その亀裂が生まれる中、若い女三の宮は青年貴族|柏木《かしわぎ》と密通して子を産んでしまう。これが第三部、宇治十帖の主人公|薫大将《かおるたいしよう》である。つまり、因果応報というべきか、かつて父の妻に手を出して子どもを産ませた源氏は、今、立場を変えて被害者となり、妻の密通の子を抱く羽目に陥ったのである。さらに源氏は失意のうちに、最愛の紫の上にも先立たれ、出家を決意し、紫の上との思い出の手紙を焼くところで第二部は終わる。  この後は、第三部宇治十帖であり、舞台も宇治となり、主人公は薫大将となる。この間、源氏はどうなったかということは書かれていない。ただ、昔からこの第二部と第三部の間に雲隠《くもがくれ》の巻という、名のみあって本文はない巻があると伝えられている。雲隠というのは、貴人が死ぬことを示しているので、ここで源氏は死んだということが表現されていると考えるのが通説である。ただし、その雲隠の巻が当初からあったかどうかは明らかでない。  いずれにせよ、平安時代に『源氏物語』が成立して以来、室町、江戸、明治、大正を経て昭和に到るまで、『源氏物語』五十四帖はすべて紫式部という女性が一人で書いたものであるというのが、常識であり通説であった。ところが、和辻論文はそれに対して異を唱えているのである。その主張の骨子は、『源氏物語』はもともといくつかの部分が先に成立していた。しかし、その後にその増補を意図した別の作者が、多数の物語を作って『原・源氏物語』に挿入した。その結果、それが年月を経て成立したのが、現在の五十四帖であるというふうに考えたのだ。  この可能性を一概に否定できないのは、昔から『源氏物語』を読む読者の間に共通の疑問が歴史的に指摘されているからである。それはまず第一に、第一巻桐壺の巻で始まった物語が、第二巻の帚木《ははきぎ》でも、再び始まるようにつまり桐壺と帚木がそれぞれ出だしであるように書かれているということである。もちろん出だしというのは、第一巻の冒頭にくるべきであり、第二巻の頭が出だしというのはおかしい。しかし、『源氏物語』を読む限りは、そういうふうに読めてしまうのである。  第二点としてさらに問題なのは、登場人物が突然何の伏線もなく出てくるのに、次の巻ではまったく出現しないとか、あるいは源氏の近くにいるはずのお馴染《なじ》みの登場人物が、特定の巻ではまったく登場しないとか、そういう一人の作者が書いたと考えると奇妙な矛盾点がたくさんあるからだ。もちろん、今、この矛盾点というのが和辻論文によって指摘されるまで、知られてはいたが、それが作者複数説に結びつくとは誰も考えなかった。指摘されてみると、確かに作者複数説を考えることによって、この現象は極めて合理的に説明できるのであるが、そもそもそういうことを誰も考えなかったのである。コロンブスの卵というのは、こういうことを言うのかもしれない。 「しかし、先生、あの説に対しては学会では反対が多いようですが」  源義はうつむき加減に言った。大学者であり、大歌人である折口に反論する時は、どうしても伏目がちになる。もっとも折口は、そのことを不快には思っていなかった。 「そうかな。もし、和辻論文の主張が正しいとするならば、今日の五十四帖以前の形の、いわば原型としての『源氏物語』があったということになる。そうだね?」  折口は言った。 「そのとおりです」  そうは言ったが、源義はそんなものがあるわけがないと思った。和辻論文の問題は、そこにもある。もし、そういう複数作者によって成立したものなら、必ずその原型になる本があるか、あったという痕跡《こんせき》が歴史上どこかに伝えられているはずなのである。しかし、源氏に関しては、そんな言い伝えも記録もまったくない。 「そこで、これを見てみたまえ」  と、折口はデスクの引出しを開けて、一通の封書を源義に差し出した。國學院大学折口信夫様宛になっているその封書は、達筆で、中身はかなり分厚い。 「よろしいのですか」 「ああ、読んでごらん。とても興味深いことが書いてある」  源義は取り出す前に、裏を返して差出人をちらりと見た。それは、奈良県吉野郡のある村からのもので、差出人の名前は貴宮多鶴子《きのみやたずこ》となっていた。それが女性の名前だったので、源義は慌てて表を返し、封筒の中から書簡を取り出した。 「前略。突然、このようなお便りを差し上げます非礼をお許しくださいませ」という書き出しで始まった手紙には、驚くべきことが書かれていた。ひと通り読んで、源義は興奮して叫んだ。 「先生、これは大変なことですね」  折口はうなずいて、 「もし、内容が事実ならばだ」  と、慎重に言った。  その手紙には、貴宮多鶴子という旧家の女性が、自分の家に伝来している『源氏物語』について一度見てもらえないかということを書いていた。しかし、問題はその『源氏物語』の写本《しやほん》である。ただの写本ではなかった。十七巻しかない。しかも、それは散逸したのではなく、間が抜けたのでもない。もともと十七帖分の分量がひとつながりにつながってあるというのだ。つまり、それは『原・源氏物語』である。  貴宮多鶴子という女性の手紙が長いのは、その残っている十七帖の内容が頭から要約して書かれているからであった。こうして読むと、『源氏物語』はまさに一つのつながりとして読めるのである。そして、そうした形が旧家に伝わっているとすれば、まさにそれは真の『原・源氏物語』であり、国文学史上最大級の新発見ということになる。  源義が興奮したのも無理はなかった。だが、折口はこういう手紙には慣れっこになっているのか、あくまでも冷静だった。 「確かに新発見の可能性はある。しかし、そうではないかもしれない。私はこれまで、田舎でたいそうなものがあると言われて、さんざん苦労して山奥へ行ってみたら、何てことはない、江戸時代以降のつまらないものだったというようなことがよくあった」 「ええ、それはわかります」 「だが、この手紙は黙殺するにはあまりにも惜しい。いや、学徒として黙殺してはならないだろう。国文学の研究者として、これが本物かどうか確かめる義務がある」 「ええ」  源義はうなずいた。 「だから、君に行ってもらいたいんだ」  折口は突然言った。 「えっ、私がですか?」  源義は意外な成り行きに、ついはしたなく大声を出してしまった。そして、顔を赤らめた。 「先生がご自身で、行かれればいいじゃありませんか」  別に労をいとうたのではない。それが当然だと思ったのである。第一、源義には古い文書を鑑定する能力などはない。 「私もそうしたいとは思ったのだが、君、その住所をもう一度よく見てみたまえ。それはとんでもない山の中なんだよ」  源義がもう一度封筒を裏返して、その住所を見ると、吉野郡の後に三之公村大字隠平字聖剣《さんのこうむらおおあざかくしだいらあざせいけん》とあった。吉野郡というのは、桜の名所の吉野山を中心とした奈良県の一角だが、とてつもなく広い郡である。何しろ南北朝時代は、京都から逃れた後醍醐《ごだいご》天皇がそこに亡命し、京都の官憲たちもどうすることもできなかったというほど山深いところだ。 「とんでもない山の中だよ、そこは」  折口はそう言い、今度は本棚の本と本の間に挟んでいた紙を取り出した。それは四つ折りにされていた、参謀本部作成の五万分の一の地形図であった。 「ここだよ」  と、折口が三之公村を指し示した。源義は驚いた。吉野というからには、桜の名所吉野山のすぐ近くだと思っていたのである。ところが、吉野山は地図の片隅のほう、はるか北西にあり、そこから十数里も山道を行ったところにその村はあるのである。吉野山は桜の名所であるので、吉野山口までは大阪電気鉄道が通っているが、三之公村へは鉄道どころかまともな道すらない。要するに山道を十数キロ、歩かなければいけないということだ。 「最近、持病の神経痛がまた痛んでね」  折口にはそういう持病があった。数年前、民俗学の調査のため山奥の村に出掛けた時、乗った馬が突然暴れ出し、折口は落馬した。その時、強く腰を打ったのがもとで、そうした病に悩まされることになったのである。神経痛は特に寒い季節に痛むものだが、今年は冷夏の兆しがあり、六月が終わりに近づいても腰の痛みが頻発した。特に今年は梅雨がなかなか明けずに冷たい雨が降り続き、そのために湿気も落ちないという神経痛持ちには最悪の気候であった。夏は暑いとはいえ、痛みがないという点では患者にとってはいい季節なのだが、その良さを今年はどうも味わえそうもないのである。 (なるほど。これじゃあ、先生は無理だ)  源義は納得した。この山道ならば、助教授や講師といった連中でもちょっと難しいだろう。若さと体力のある人間でなければ、とてもここまで訪ねてはいけない。 「君は、確か富山の出身だったね?」 「ええ、そうです」 「立山《たてやま》には登ったことがあるか?」 「ええ、子どもの頃、一度だけ」 「じゃあ、大丈夫だよ」  折口は言った。 「あの山に登れるような体力があるならば、心配ない。とにかく君、私の名代として、この本を、その貴宮多鶴子なる女性から見せてもらってくれないか。本当は借覧《しやくらん》できるとありがたいのだがね」 「わかりました。交渉してみます。先生、念のために添状《そえじよう》を書いていただけますか」 「ああ、そうだな。わかった。明日までに書いておく。君は、夏休みは帰省《きせい》するのか」 「はい、そのつもりです」  あと一週間ほどで前期の授業は終わり、大学は夏休みに入ることになっていた。 「じゃあ申し訳ないが、帰省の前にひとつ頼むよ。これは重要な事項なのでね。  添状の他に、君が私の名代として行くということを葉書で出しておこう」 「よろしくお願いします。何しろ山の中ですから」 「先生」  出ていこうとした源義は、引き戸に手をかけながら振り返った。 「何だね?」 「一人ではちょっと心もとないので、友人を連れていって構《かま》いませんか?」 「友人?」 「そうです。山登りの得意な男がいますのでね。まあ心配ないとは思うのですが、念のためについてきてもらったほうがいいように思うんです」 「構わんよ。その友人の汽車賃《きしやちん》も、私が出そうじゃないか」 「ありがとうございます」  源義は頭を下げて、教室を出た。      二  源義は大学を出ると、渋谷駅前から市電に乗って麻布に向かった。麻布の明星学院大学の校門をくぐると、源義は学生寮に向かった。キャンパスの中央にチャペルがあり、その裏が学生寮になっている。そこに、源義が京都立命館中に一時いた時の、同じ学舎で学んでいた榊《さかき》増夫がいた。榊は京都出身である。  寮は、二段ベッドが部屋の両脇《りようわき》にあり、その真ん中に机が置かれている、四人一組の部屋である。源義は暗い廊下を歩いて、奥にある榊の部屋の引き戸をいきなり開けた。 「あっ、失礼しました」  源義は、思わず頭を下げた。榊はいたが、先客もいた。四十がらみの西洋人の神父である。黒い僧服をまとったその神父は、机を挟んで榊と向かい合わせに座っていた。 「あっ、いいんだ。紹介しよう」  と、榊は立ち上がった。 「これは、僕の友人の角川源義君です。國學院の学生です。こちらはパウエル神父」  と、榊はその西洋人を紹介した。 「角川と言います。どうぞよろしく」 「よくいらっしゃいました」  パウエル神父は、流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。 「何かお話し中でしたら、私は失礼しますが」  源義は言ったが、神父は首を振って、 「もう終わりました。さあ、どうぞ」  と言って、部屋を出ていった。  源義は榊と向かい合わせに座ると、 「よかったのか?」  と、声をかけた。 「ああ、ちょうど話が終わったところだ」 「懺悔《ざんげ》でもしていたのかい?」 「まさか。懺悔をするならば、ちゃんと懺悔室があるよ。ちょっと、今後の身の振り方について相談していたのさ」  榊は答えた。榊は痩《や》せぎすで、どちらかというと青白い顔をして、一見不健康そうである。だが、源義は榊が頑丈な体と漲《みなぎ》る体力を持っていることを知っていた。立命館時代も、よく京都北郊の鞍馬《くらま》山などに登ったが、源義がすぐに息を切らすのに比べて、榊はすいすいと山を登っていく。 「どうしたんだ? 何か急用かい?」  榊は言った。 「いや、そういうわけじゃないんだけれども、ちょっと頼みがあってね」  源義は改めて居住まいを正すと、 「夏休みはやはり、実家のほうに帰るんだろう?」 「ああ、そのつもりだが」 「ちょっと頼まれてくれないか。一緒に行ってほしいところがあるんだ。実は奈良県の山奥なんだが——」  と、折口教授から頼まれた内容を話した。それを聞くうちに、榊の目はだんだん輝いてきた。 「それはおもしろいな。ぜひとも、一緒に行かせてくれ」 「いいのかい?」  源義はちょっと意外だった。この大学で神学生として学んでいる榊が、源氏物語に関心を示すというのは意外なことだった。 「俺だって、子どもの頃は実は読んでいるんだ」  と、榊は言った。 「家には代々、源氏物語絵巻|屏風《びようぶ》なるものが伝えられていてね。まあ、絵巻屏風なんていうのも変な言い方なんだが、要するに源氏物語の場面を屏風にしたものなんだよ」 「それは、ぜひ拝見したいな」  榊の実家は京の伏見であった。坂本龍馬が暗殺された寺田屋の近くである。あのあたりは交通の便がよく、江戸時代からの裕福な商家が多い。榊も、その商家の出であった。源義は、何度かその実家に遊びにいったことがあるが、屏風はまだ見たことがなかった。 「いつもは、蔵の中にしまってあるからな」  と、榊は答えた。 「虫干しの時じゃないと、見られないぞ。夏は少し湿気が多いからな、今度出すとしたら秋になるだろう」 「そうか」 「源氏物語は百合子も好きでね。いつも読んでいた」  百合子の名を聞いて、源義はちょっと緊張した。増夫の妹である。まだ十七歳だが、本当のユリの花のような可憐《かれん》で愛らしい女性である。実のところ、源義は百合子が目の前にいる時は、冷静さを失ってしまう。 「百合子さんは元気か?」  と、源義はさり気なく聞いた。榊は、そんな源義の心の内には一向に気づかず、 「ああ、花嫁修業しなきゃいけない歳なんだが、相変わらず女学校で勉強しているよ。小学校の先生になりたいそうなんだ」 「そうか。百合子さんなら、いい先生になるだろうな。子ども好きだし」  源義は伏目がちに言った。 「ところで、いつ行く?」 「えっ?」  源義は別のことを考えていたので、聞き返した。 「何だよ、君の言ったことだよ。その奈良の奥深い山に源氏物語を探しに行くのは、いつにするかということだよ」 「ああ、そうか。来週でどうだろう。ちょうど夏休みに入るし、木曜日あたりにこちらを発つのは」 「木曜と言えば、木曜には何か会合に行ってなかったか?」  榊は聞いた。 「ああ、木曜会のことだな。実は、今日もこれからあるんだが、来週以降は夏休みに入ると思うよ。先生は野外調査に出掛けるのでね」  それは木曜会のことだった。木曜会は、日本民俗学の第一人者と言われ、源義の師の折口信夫の師匠格でもある柳田国男が主宰している私的研究会であった。源義はまだ若年ながら、それに参加を許されていたのである。 「わかった。じゃあ、木曜日にしよう。構わないか?」 「ああ、いいとも。どこで落ち合おうか」  そこで源義は、榊との待ち合わせ場所を東京駅に決めた。  用事が済んで明星学院を出ると、源義は再び市電に乗って、今度は東京駅前に向かった。柳田国男の木曜会は、以前は柳田の私邸で開かれていたが、現在は日本民俗学講座として駅前の丸ビルで開かれているのである。丸ビルは十階建てで、帝都東京を象徴する最新鋭のビルである。源義は玄関を入ると、八基あるエレベーターのうちの一つを使って八階まで上がった。その奥に、研究会の開かれている部屋がある。  ノックしてドアを開け、中に入ると、柳田を中心にして日本民俗学の研究者たちが数人、雑談をしていた。 「いやあ、角川君」  柳田は機嫌良く声をかけた。柳田は既に六十六歳だが、歳よりは少し若く見える。額は広くはげ上がっているが、まるで墨で書いたような黒々とした太い眉《まゆ》が、柳田の精力的な活動と相まって、その年齢を若く見せているのかもしれなかった。 「こちらへ来たまえ」 「はい、失礼します」  源義は緊張して歩み寄った。いつものように和服姿の柳田は、隣に座っている背広にハイカラーのシャツを着てネクタイをした中年の男を示した。 「紹介しよう。これが内田|百《ひやつけん》君だ」 「ああ、『阿房《あぼう》列車』の」  源義は言った。  夏目漱石の弟子で、特に旅行随筆などで有名な作家である。 「先日、氷川丸の船上で、林|芙美子《ふみこ》君や内田君らと座談会をしたんだ」 「あっ、そうでしたか」  源義は、それについてはまだ読んでいなかった。 「この角川君は折口門下の俊秀でね。折口君が最も将来を嘱望している弟子の一人だ。まあ、贔屓《ひいき》にしてやってくれたまえ」  と、柳田は言った。 「いえ、俊秀なんてとんでもない」  源義は顔を赤らめて、謙遜《けんそん》した。 「君は、俳句もやるそうじゃないか」  内田は陽気なガラガラ声で言った。 「いえ、やるというほどのことでは。一時凝ったことはありますが、今はもうやっていません」 「ほう、どうしてだね」 「最近は師匠に操《みさお》をたてて、和歌のほうに凝っているのさ」  と、柳田はにやりとして言った。  内田は、それを聞くとうなずいて、 「ほう、そうか。操をね」  と、改めて源義をじろりと眺め回した。 「いえ、操なんてとんでもない。先生、冗談がお好きで困りますよ」  と、源義は慌てて言った。  十五分ぐらいすると定刻になったので、柳田の講義が始まった。日本民俗学は、柳田が創始した学問である。それまで日本には、学問としての体系はおろか、民俗学という言葉すらなかった。それを柳田が一から築き上げて、今日の隆盛をもたらしたのである。  柳田はもともとは学者ではなく、貴族院の書記官長をも務めた高級官僚である。それが公務員在職中も独力で研究を進め、特に外国では学問として確立しているフォークロアやエスノロジーの影響を受けた。これを基に、柳田は自ら独立した学問の体系としての民俗学を確立したのである。  大正八年、四十四歳の時に当時の貴族院議長徳川|家達《いえさと》と対立し、貴族院書記官長を辞任した。しかし、それ以後の柳田は、かえって水を得た魚のように活動を始めたのである。そして、今年の一月には日本民俗学の建設と普及の功により、朝日文化賞まで受賞している。名実ともに、日本民俗学の第一人者であった。その柳田の直接指導を受けられるのだから、こんな幸せなことはない。もちろん、このメンバーの中で最も若い源義がこの会に参加を許されたのは、折口の推薦によるものであった。  講義は、芸能の発生というものが、民俗学上どのような視点でとらえられるものかを分析したものであった。柳田理論の骨格を成す部分である。源義は一生懸命ノートをとった。一時間半ほどの講義が終わると、質問者が相次いだ。柳田は、そのどの質問にも的確に、明快に答えた。 「他に質問はないかね?」  柳田は言った。  源義は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》したが、手を上げた。 「先生。先生は和辻哲郎氏の源氏物語多作者論について、どのようにお考えになっておられますか?」  源義がそう聞いた途端、一座には異様な緊張が流れた。  源義は質問しないほうがよかったかと、一瞬後悔した。だが、柳田は大きくうなずいて、 「まあ、一説だとは思うよ。ただ、それが本当にそうだったかどうかは、まだ検討の余地がかなりあるのではないかな。ただ、前後の辻褄《つじつま》が合わぬとか、全体の整合性がないからという理由だけをもって多作者論を云々するのはどうかな。文章の力量という点では、均質化しているように私は思えるのだが」  柳田は、さすがに高級官僚の出身だけあって、万事にそつがなかった。まったく新しい学問の体系を確立するということも、柳田の官僚としての調整力が大きな力を持ったことは間違いない。もちろん、ただ調整能力だけでなく、新しい学問を創造するためには常人にはない優れた創造力が必要なのだが、柳田はその両者を兼ね備えている貴重な存在だった。  一方、折口信夫は天才的感覚においては柳田より優れているものを持っているが、一方で学者バカのようなところもあり、社会人としての適応能力としては、柳田のほうがはるかに上であった。ただ、どちらかと言うと、源義はそういう柳田よりも、折口のほうが好きであった。 (先生はやはり、源氏物語多作者論に反対なのだな)  と思った。  それを高く評価しているならば、このような言葉は出ないはずである。 「角川君」  柳田は壇上から言った。 「はい」 「君は、折口君の吟遊《ぎんゆう》詩人説に相当影響を受けているんじゃないのかい?」  それは師の折口信夫が常に提唱している、文芸というものは無名の多数の作者によって創造されたものが、最終的に集大成されて一つの文芸作品になったという考え方である。そう言われて、源義は初めて気がついた。源氏物語多作者論がもし成立するとすれば、それは折口理論にとって決してマイナスではない。いや、むしろ折口理論の正しさが証明されると言ってもいいぐらいのものだ。柿本人麻呂もホメロス同様、架空の存在であると考えるのが折口流のやり方なのだから。つまり、多数の吟遊詩人がそれぞれ歌ったものを集大成されたのが、『オデュッセイア』であり『イリアッド』である。それに作者の総称として、ホメロスという名前が冠せられたという考え方だ。逆に言えば、ホメロスという個人はいなかったのである。 (なるほど、そういう考え方をすれば、紫式部もいなかったことになるな)  源義は、初めてそのことに気がついた。      三  翌週の木曜日、源義は榊と東京駅で待ち合わせた。榊は白い夏用の学生帽を被《かぶ》り、開襟シャツにズボンという出で立ちであった。源義は、袴《はかま》をはいた書生姿である。 「さすがは國學院、この暑いのに和服か」  榊は開口一番言った。 「何を言う。洋服のほうが暑いだろう」  源義はやり返した。  夏の帰省で一番嫌なのは、蒸し風呂のような列車に何時間も閉じ込められることである。特に源義たちの乗る三等車は換気も悪く、すえたような臭いに満ちていた。その中で十時間以上過ごさなければいけないのだから、帰省も一種の苦行である。 「京都は暑いだろうな」  発車した列車の中で、座席にようやく座ることができた源義は、汗を拭《ふ》きながら榊に言った。 「まあ、並大抵のものじゃないよな。君がいた頃の京都は、むしろ涼しかったよ」  と、榊は言った。 「そうか?」  源義は首をひねった。京都の暑さというのは、筋金が入っている。内陸特有のむっとした湿気の中で、太陽が容赦なく照りつけるので、東京よりははるかに暑い。富山育ちの源義は、何よりも夏の暑さに参ってしまったのである。そして、夏が暑いわりには冬も寒い。富山のように、夏の一時期に気温が上昇することはあるものの、押し並べて涼しい国で育った人間にとっては、京都に住むことは苦痛であった。実のところ、源義が古都を離れ東京の國學院に移ったのも、それが大きな理由の一つなのである。源義は汗っかきであった。 「おいおい、そんなに汗出しているんじゃ、そのうち、体の中から水分がなくなってしまうぞ」  榊はからかった。  この暑さでは、本を読むどころではなかった。本の頁を開けば、汗が滴り落ちて汚してしまう。過重労働で悪名高い神田あたりの印刷業界も、お盆休みはきちんととる。これだけ汗が滴り落ちる季節では、紙を扱う仕事はできないからである。  源義は何をやっても暑いので、仕方なく暑気払いに酒を飲んで寝ることにした。源義は滅多に酒は飲まないが、飲む時は一升でも飲む。そして、すぐに鼾《いびき》をかいて寝てしまうのである。 「おい、起きろ。着いたぞ」  榊に揺り起こされて目が覚めると、そこはもう京都駅だった。源義は慌てて降りた。  もう夜はかなり更けていたが、熱気はおさまっていない。これが京都の夏の夜である。 「やれやれ」  と、源義は口に出してつぶやいた。これがもし富山だったら、もう少し涼しい思いをできたはずである。 「タクシーで行こうか」  榊は言った。 「タクシー? 贅沢《ぜいたく》だな」  源義は思わず言った。まだ市電も動いている。 「市電じゃ、ちょっと不便だ。いいから、タクシーで行こう。折口先生から貰《もら》った交通費があるじゃないか」  本来、榊は京都へ帰るのだから、実家から旅費はちゃんと貰っていた。それに、さらに折口が東京〜奈良間の汽車賃をくれたのだから、結局は二重取りである。 「明日は早発ちなんだからな。これぐらい楽をさせてもらってもいいだろう」  二人はタクシーに乗って、榊の伏見の実家に着いた。  榊の実家は、江戸時代からの造り酒屋と廻船問屋《かいせんどんや》を兼ねているという大店《おおだな》であった。間口の広い玄関には相州屋という看板がかかり、軒下にはどこの造り酒屋でもある杉の葉で作った玉が吊《つ》るしてある。格子戸を開けると、初老の女性が迎えに出てきた。榊の母の貞子であった。 「母ちゃん、帰ったよ」  榊は突然、京都弁で言った。 「ああ、おかえり」 「お世話になります」  源義も頭を下げた。 「あっ、角川さん、久しぶりやの。どうぞお入りやす。汗かいたやろ。湯が沸《わ》いとるで、入りなさい」 「ありがたいな。汗で体がびしょびしょや」  湯殿は、四畳半ほどもある広いところだったので、源義と榊は一緒に入った。大きな鉄桶《てつおけ》の中に板が浮いている、今時珍しい五右衛門風呂である。源義は湯を浴びて、生き返った心地がした。  貞子が用意してくれた浴衣《ゆかた》に着替えて居間に戻ると、ちゃぶ台の上に食事の支度がしてあった。ご飯と魚の煮つけと漬物である。みそ汁もついていた。関東では滅多にお目に掛かれない、薄い白|味噌《みそ》のみそ汁である。源義は久しぶりに京の家庭料理を味わった。 「やはり漬物がうまいな」  浴衣の袖をまくって、源義は急いで飯をかき込んだ。結局、車中では何も食べずに、信じられないほど腹が減っていたのである。 「まあ、冬の千枚漬けのほうが、もっとうまいんだがな。食べたことあるか?」  榊は言った。 「ああ、あるよ。下宿のおばさんにご馳走《ちそう》になった。まあ、ご馳走というほどでもないが」 「お兄ちゃん、これ飲む?」  と、榊の妹の百合子が盆の上にビールを載せてやってきた。白地に大胆な朝顔の絵柄を書いた浴衣姿である。源義は、一瞬それを見て胸がドキドキし、慌てて目を逸《そ》らした。 「おう、気がきくじゃないか」  榊は早速ビールの栓を抜いて、手酌でコップに空けた。 「角川さん、どうぞ」  源義のほうは、百合子がお酌をしてくれた。  源義は、 「はっ、どうもありがとうございます」  と、頭を下げてコップを差し出した。  銘柄は恵比寿《えびす》ビールである。 「このビールな、角川君の大学のそばに大きな工場があるんや」 「そうなん、角川さん?」 「ええ」  源義はどぎまぎして答えた。 「かなり大きな工場のようですね」 「なんや。いつもと違うやないか、もうちょっとリラックスしたらどうや」  榊は笑って、今度は百合子に向かって、 「学校のほうは、うまくいっとるのか」 「うん。もう来春卒業やし、今、一生懸命学業の仕上げをしてます」 「学業の仕上げか。ならば、こっちもそろそろ卒論でも書かなきゃいけない頃だが。明日早いっていうことは、知っているな?」 「どこへ行くの?」 「こいつが先生から頼まれてな。奈良の山奥へ宝もん探しに行くんや」  榊は、そう言って笑った。 「宝もん? 奈良の山奥いうて、どのあたり?」 「吉野や」 「吉野? 桜の季節だったらよかったのにね」 「いや、そんな吉野やないで。奥吉野や。南朝の遺跡があるところの近くらしい」 「でも、兄ちゃん、そんなとこ行って大丈夫?」  百合子は一転して表情を曇らせた。 「何が?」  榊は怪訝《けげん》な顔をした。 「南朝って、怖いんと違う?」 「怖いことがあるもんか。南朝のほうが正統だということは、認められていることやで。それより、酒飲んだら、今日は早く休みたいわ」 「ちゃんと、もう床も敷いてあります。どうぞ、ゆっくりお休みやして」  風通しのいい座敷に蚊帳《かや》が吊ってあり、その中に寝床が二つ用意してあった。源義と榊は、枕《まくら》を並べて寝ることにした。 「なあ、お前の先生な」  源義は猛烈な睡魔に襲われていたが、榊は突然話しかけてきた。 「何だ?」  寝たままで、源義は答えた。 「折口先生って、男色の噂《うわさ》があるが、本当か?」  源義は目が覚めて、 「何で、そんなこと聞くんや?」  と、つい慌てていたので、関西弁で答えた。 「そりゃあ、興味があるからさ。ひょっとして、お前も——」 「アホなことを言うな。そんなの関係ない」 「ということは、別のとは関係があるのか」 「もう、いいじゃないか。先生のことだぞ。弟子たる僕が、そんなに勝手に話せるわけがないだろう」  源義は、怒って言った。 「わかった、わかった。じゃあ、もう寝よう。明日は早いからな」  源義はたちまち大鼾《おおいびき》をかいて、深い眠りに落ちた。      四  翌朝、一番に京都を出た二人は、関西本線・和歌山線と乗り継いで吉野口駅から大阪電気鉄道に乗った。この鉄道は単線で、吉野の入口まで行く。その後は、基本的には歩きである。  昔、「歌書《かしよ》よりも軍書《ぐんしよ》に悲し吉野山」とうたわれたこの山は、麓《ふもと》のほうからずっと頂上近くにかけて、なだらかな傾斜となっており、傾斜のそこここに桜の木がたくさん植えられている。春になれば、この全山は桜の巨大なかたまりと化すのである。 「桜の季節の吉野を見たことがあるか?」  榊は言った。 「いや、残念ながら」  と、源義は首を振った。 「もし、金と暇があるなら、一度は来てみることだ。本当にすごいぞ。俺なんか、ここに住みたいと思ったぐらいだからな」 「このあたりに、別荘でも建てるのか」  源義は聞いた。 「もちろん、そんな金はないけれども、もし俺が将来、力を持ったら、ここに山荘を建てたいものだな。そうすれば、いつでも桜を見にくることができるじゃないか」  それに対して、源義は声を立てて笑った。 「何がおかしい?」  榊は言った。 「だって、君は神学生じゃないか。将来は神父さんになるんだろう。神父さんが、力とか山荘とか言うのはおかしいよ」 「それもそうだな。確かにそうだ」  榊はうなずいた。 「どっちにしろ、今日はここ泊まりになる。  どうだ、少し山上を見物していくか」  榊は言った。  ここに着くまでに、一日の大半を使ってしまった。もう午後三時を過ぎている。これから三之公村まで行くわけにはいかない。三之公村は夜明けとともに出発して、ようやく夕方までに着けるかぐらいの距離にあるのである。しかも、手段は山道を歩くしかない。いずれにせよ、今日は吉野山の宿坊に泊まる予定であった。 「もちろん、寺は参拝したいな。あと、確か後醍醐天皇の陵があったよな」 「ああ、あることはあるが、後醍醐天皇か、例の。俺はあまり好きじゃないな」  榊は言った。  後醍醐天皇は、南北朝時代の天皇である。この天皇の最も大きな功績は、当時屋台骨が腐り、日本国を統治する能力のなかった鎌倉幕府を滅ぼしたことであろう。鎌倉幕府と言っても、当時はすでに源氏の世の中ではなく、その源氏の番頭であったはずの執権《しつけん》北条氏が鎌倉幕府を乗っ取った形になっていた。しかし、鎌倉幕府そのものが武士の権益を守る武士のための政権であったために、いわゆる直属の部下である御家人たちは源氏の将軍家が絶えた後も、執権の北条氏に忠誠を誓っていた。  そこへ後醍醐天皇が登場する。後醍醐天皇は朱子学の信奉者であり、日本は天皇が統治すべき国であるという固い信念を持っていた。そのために倒幕運動を起こした。最初は当然ながら失敗し、隠岐《おき》に島流しにされるというような目にも遭ったが、当時の幕府体制に絶望していた楠木|正成《まさしげ》や新田義貞といった武士が、後醍醐の応援に駆けつけ、最後に、後に室町幕府の祖となる幕府の最も有力な御家人の一人であった足利|尊氏《たかうじ》が幕府を裏切ったことによって、後醍醐の倒幕は成った。  しかしながら、後醍醐は倒幕後の武士に対して、充分な恩賞を与えなかった。それに怒った武士たちは、尊氏を担ぎ上げて室町幕府を誕生させた。それと敵対した後醍醐は、京都を捨ててこの山深い吉野の地に亡命政権を作らざるをえなかった。それが、京都にある北朝に対する南朝である。南北朝時代というのは、この二つの朝廷が日本に存在していた時代を指す。 「こんな京都に近いところに亡命政権を立てて、大丈夫だったんだろうか?」  源義は不思議そうに言った。 「それは違うよ。だって、われわれは電車で来たじゃないか。昔なら、歩くか馬しかない。ここは結構大変な距離だ。しかも、この山はずっと大峰《おおみね》山系につながっていて、山伏が本拠地とするぐらい深い山だ。京都の官憲も、ここまでは追って来れなかったのだろうよ」 「そういえば、昔、天武天皇が大海人《おおあま》皇子時代に逃げてきたのも、ここだったな」  源義は思い出した。  南北朝時代より、はるか昔の壬申《じんしん》の乱である。壬申の乱は、近江朝廷の主であった大友皇子に対して、叔父《おじ》の大海人皇子が反乱を起こし政権を奪取して天武天皇となったという、日本有数の大乱であるが、その大乱の素《もと》となったのは大友皇子の父である中大兄《なかのおおえ》皇子(即位して天智天皇)と大海人皇子の兄弟不和であった。二人は兄弟ながらも仲が悪く、結局、天智天皇は弟の大海人皇子を殺そうとした。そこで、大海人皇子はこの山奥に逃れた。そして、天智の死後、大海人は挙兵し近江の都を陥れ、古い都のあった飛鳥《あすか》に浄御原《きよみはら》宮を造営して、新政権を立てたのである。 「兄弟が相争ったんだよな」  源義は吉野の山を見ながら、しみじみと言った。 「君は兄弟がいるのか?」 「もちろんいるさ」  源義は言った。 「兄弟同士が争う骨肉の争いというのは、やはり人間としては最も避けたいことだよな」 「おい、どうしたんだ。やけにセンチメンタルなことを言うじゃないか」 「いや、そこは『歌書よりも軍書に悲し吉野山』さ」  その後、二人は後醍醐天皇陵を見、中腹にある蔵王堂にも参拝した。ここには山岳密教の本尊とも言うべき蔵王権現が祀《まつ》られている。その巨大な憤怒《ふんぬ》の姿は実に恐ろしく、見る者を恐怖せしめる効果がある。同じ仏像とは言っても、釈迦《しやか》や阿弥陀《あみだ》のように温顔そのものの様相をしている仏像もあれば、不動明王やこの蔵王権現のように憤怒の形相をしているものもある。  源義は、昔はよくわからなかったこの憤怒相の意味が、最近はわかりかけてきたと思う。結局、仏というのは温顔と憤怒を兼ね備えた存在なのであろう。それを同時に見ることができないから、このように分けた形で見ているのだ。日本人にとって、結局、仏とはそういうものなのかもしれなかった。  その日、二人は蔵王堂の宿坊に泊まり、名物の吉野|葛《くず》の葛づくしを堪能《たんのう》した。      五  翌朝は快晴で、朝から太陽がぎらぎらと照りつけていた。源義と榊は、宿で水筒と麦わら帽子を借りると、まず吉野川を上流に向かって溯《さかのぼ》り始めた。まず、吉野川の支流である三之公川との分岐点を目指すのである。そこまで、三里の道のりであった。  今日は一日強行軍なので、二人は朝早く出発したのだが、それでも夏の日差しは容赦なく照りつけてきた。 「暑いな」  源義は、吹き出る額の汗を手拭《てぬぐ》いで拭《ふ》いた。  道は山の中にしては、わりと平坦《へいたん》であった。緩やかな上りである。源義は、すでに何回か水筒の水に口をつけていた。 「おい、いい加減にしておけよ。水がなくなるぞ」  榊が呆《あき》れて言った。 「大丈夫さ。いざとなったら、あそこがある」  と、源義は吉野川を指さした。吉野川の水は深い緑で、まるで翡翠《ひすい》のように見える。汚れているわけではない。ところどころ深い淵《ふち》があるので、そのように見えるだけだ。近寄って手ですくって見れば、これほど美しい清水もないのである。 「生水はやめておけ」  榊が言った。 「腹でも下したらどうする。こんなところで歩けなくなったら、遭難してしまうぞ」 「遭難? それは少し大げさじゃないか」  源義は言ったが、あながち冗談でもないことは当の本人がよく知っていた。夏とはいえ、山奥である。温度は急激に下がる。こんな人里離れたところで腹下しでもおこして動けなくなったら、本当に死ぬ可能性もあるのだ。夏山だって、それぐらいの危険があることは、源義は充分に心得ていた。ただ、友人の言葉に何となく反発してみたかっただけである。  そのまま三時間ほど、二人は無駄口をたたき合いながら歩き続けた。太陽が頭の真上にきた頃に、二人は由緒ありげな古い墓の前にたどり着いた。「自天王《じてんのう》之墓」と古ぼけた木柱に墨書されてあった。 「これが自天王の墓か」  源義は、山奥で突然知人にあったような驚きを覚えた。それは、五輪の塔でも宝篋印塔《ほうきよういんとう》でもなかった。粗末な自然石の台座に、まるで句碑のような荒々しい自然石の石柱が立ち、真ん中に「自天王」と刻まれているだけの質素なものである。 「自天王って、誰だっけ?」  榊は言った。 「あの南朝の最後の天皇さ」  源義は言った。 「どういうことだったっけ?」 「南朝のことは知っているだろう?」 「ああ、まあだいたい知ってはいるけれども。うーん、ちょっと記憶があやふやなところがあるな」  榊の言葉に、源義は苦笑して、 「後醍醐天皇のことは知っていたじゃないか。あの時、日本の天皇家は二つに分かれた。いわゆる一天二王さ」  源義は丁寧に説明してやった。  後醍醐天皇が足利尊氏と対立し、吉野へ逃亡して亡命政権を打ち立てたのは、延元元年(一三三六)のことである。鎌倉幕府を倒し、建武の新政を確立してから、わずか二年後のことであった。後醍醐天皇は吉野にあって、われこそは真の朝廷なりと宣言した。  一方、足利尊氏は後醍醐と対立する皇族を立て、これを光明天皇とし、京都の朝廷を立てた。これ以後、京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝(または吉野朝)と呼ぶ。後醍醐天皇は京都回復を切望するが、実際には南朝軍は次々と足利軍に敗れる。最も大きな痛手だったのは、南朝最大の軍団を持つ新田義貞が延元三年(一三三八)に北陸で戦死したことだろう。この大勝利を期して、北朝は足利尊氏に征夷大将軍を宣下した。室町幕府の始まりである。  そしてその翌年、後醍醐は「玉骨《ぎよつこつ》は南山《なんざん》の苔《こけ》に埋もるとも、魂魄《こんぱく》は常に北闕《ほつけつ》の天を望《のぞ》まんと思う」という有名な怨念《おんねん》の言葉を残して、吉野で憤死する。この言葉は「身は吉野山の苔に埋もれようとも、魂は常に京都を睨《にら》んでいる」ということである。さらに後醍醐の遺言は続くが、その中に「必ず京都を回復せよ。京都を回復しようと志さないものは、わが子孫にあらず」という趣旨の言葉が続く。これが、以後百数十年に及ぶ南朝の壮烈な抵抗の始まりであった。  後醍醐の跡を継いだ後村上天皇は、楠木正成の遺児|正行《まさつら》を立て、しきりにゲリラ戦術で北朝に抵抗するが、やはり武士の大半を押さえた室町幕府の力は強く、その傀儡《かいらい》政権である北朝に対し南朝はどうしても勝つことができない。  しかしながら、どちらが正統の天皇であるかと言えば、やはり傀儡政権である北朝よりは前の天皇から正式に位を譲り受けた後醍醐の南朝であると考えるのが、当時としても妥当な考え方であった。何よりも大切なことは、南朝側は皇位の象徴である三種の神器(鏡・剣・玉)を持っていたことである。この三種の神器があり、この三種の神器を前天皇から譲られた人間こそ正統な天皇であるとの考え方を貫けば、南朝の後村上天皇こそ正当な天皇であり、それ以外はすべて偽物であるということになる。軍事的には南朝は北朝に圧倒的に劣っていたが、この正統性があるためになかなか潰《つぶ》されることはなかった。  この時代を書いた有名な歴史書が『太平記』であるが、実はこの時代は太平(平和)とはほど遠く、戦乱また戦乱の時代であった。その戦乱に終止符を打とうと立ち上がったのが、室町幕府三代将軍足利義満であった。金閣寺を建てたことでも有名な足利義満は、南北両朝に対し和解を呼びかけ、次のような和解条件を提示した。それは、まず南朝の天皇が北朝の天皇に対し、正式な儀式を行って三種の神器と天皇の位を譲るということである。そして、第二条として、ただし、その次の天皇は南朝側から出す。そして、さらにその次は北朝と、それ以降は南北交互に天皇を出していこうというものである。戦乱に疲れていた南朝側は、その条件を受け入れた。元中九年(一三九二)に南北朝合一は成った。この和約の要《かなめ》は言うまでもなく、両統(南北朝)の迭立《てつりつ》である。迭立とは、それぞれ交代で二つの系統が位を受け継ぐことを意味する。  ところが、実はこの条件は守られなかった。南朝側の後亀山天皇が三種の神器を北朝の後小松天皇に授けた後、まず足利義満と北朝は約束を守らず、後亀山天皇に上皇(太上天皇)の位を贈らなかった。南朝側の抗議に、和解後一年五カ月もたって、ようやく上皇の尊号を後亀山に贈ったが、幕府はそれ以後も和約を誠実に守ろうという態度はまったく見せず、そうこうするうちに義満は死に、その後を継いだ将軍義持は約束を完全に破り、北朝の後小松天皇の皇子|実仁《みひと》親王を皇太子に立てた。南朝は怒って、後醍醐以来、南朝の忠実な家臣である北畠家の満雅《みつまさ》を立て、応永二十一年(一四一四)反乱を起こす。いや、これは反乱というより、正義の戦いというべきかもしれない。  幕府もこの時、関東の情勢に不穏なものがあり、さらに京都で戦争をする余力がなかった。そのため、後小松の跡を継いで即位した実仁親王(称光《しようこう》天皇)の在位を短くして、その後に南朝側の後亀山天皇の皇子(小倉宮)を立てることを条件に、双方が和解した。これが応永の乱である。  ところが、幕府はあくまで南朝方の天皇を嫌い抜いていた。もともと病弱であった称光天皇の病が高じると、幕府は南朝の小倉宮ではなく、それとはまったく別系統の伏見宮|貞成《さだなり》親王の皇子を新たな皇太子に立てようと画策した。南朝にとって許すべからざる事態であった。というのは、伏見宮というのは確かに皇族ではあるが、称光天皇の子どもでもないし(称光帝には子どもはいなかった)、皇統としてはずいぶん血が薄い。それに比べて小倉宮は、正統なる天皇である後醍醐の孫である。しかも直系だ。その直系を差し置いて、離れた遠い親戚《しんせき》でしかない人間が皇位を継ぐなど、とんでもない話である。だが、幕府はあくまでそれを貫こうとしたため、小倉宮はそれまで住んでいた京都|嵯峨《さが》の大覚寺を出奔脱出し、再び北畠満雅に挙兵を命じた。  ところが、この時は幕府も関東に騒動などなく、全力をもって北畠軍に当たることができたため、北畠軍は奮戦したが結局敗走し、大将の満雅も討ち死にするという最悪の結果を迎えた。小倉宮は捕らえられ、強制的に出家させられた。しかし、その息子たちは比叡《ひえい》山に籠《こ》もり、再び兵を挙げた。この戦いも奮闘空しく敗れ去ったが、その時、三男の尊義《そんぎ》王は再び吉野に逃れ、亡命政権を樹立した。そして、その尊義王の下に旧南朝の武将楠木・北畠らが三種の神器の一つである玉(神璽《しんじ》〈つまり天皇印〉とも言う)を奪い、献上したのである。その玉は、尊義王の息子にも受け継がれた。その息子こそ、自天王なのである。  そして、南朝はついに最大の悲劇を迎える。世に長禄の変と呼ばれる無残な事件である。幕府は何とか南朝方の手にある三種の神器の玉を奪回するために、赤松家の浪人に目をつけた。赤松家は当主が怨恨《えんこん》を持って将軍を暗殺したため、家はとりつぶされて家来は離散状態にあった。その御家《おいえ》再興を願う赤松浪人たちに、幕府は自天王を殺し神璽を奪い返してくれば、認めてやると持ちかけたのである。赤松の浪人たちは喜んでこれに乗った。そして、自分たちは将軍暗殺以来室町幕府に極めて冷遇されている、今後は南朝に味方したいと、自天王の下に出頭したのである。自天王がこれを信じたことは言うまでもない。そこで、気を許したところを、赤松の浪人たちは襲いかかった。長禄元年(一四五七)十二月のことである。自天王は、まだ三十歳に満たぬ若々しい帝王であった。  この自天王の悲劇的な死をもって、南朝の歴史は実質的に幕を閉じる。それ以後も歴史のそこかしこに南朝の後裔《こうえい》は姿を見せるのだが、もはや昔日の力はなく、そのうちに歴史の闇《やみ》の中に消えてしまうのである。  その自天王の墓碑の前に、源義と榊は立っていた。日差しはあくまで強く、上空には雲ひとつない。 「そうか。これが滅びた王家の最後の形見か」  榊がそうつぶやいた時だった。突然、背後の身の丈ほどもある夏草の繁《しげ》った草むらの中から声がした。 「何を言う。滅びてなぞおらんぞ」  二人はびっくりして、後ろを振り返った。夏草の中から出てきたのは、初老の男だった。髪は白いが、日に焼けた肌は精悍《せいかん》そのものである。麦わら帽子を被《かぶ》った出で立ちは、農夫のように見えた。 「お前たちは何者だ?」  その男は言った。 「私は國學院大学の学生で、角川と言います。こちらは明星学院の榊君です」 「その角川が、この村に何をしに来た。ここは余人の来るところではない。帰れ」  男は、取り付く島もない態度で言った。角川は慌てて、 「いえ、私はこの村の人に呼ばれたんです。だから、行くんです。この奥の三之公村というところです」 「三之公?」  男は首を傾げて、 「三之公の誰が呼んだというのだ」 「貴宮多鶴子さんという女性です」 「貴宮? 宮さんのところか」  男は急に態度を改めて麦わら帽子をとり、深々と二人に一礼した。源義は、呆気《あつけ》にとられて榊を見た。榊も驚いた表情をしている。 「失礼した。わしは三之公村の筋目で、川上|惣《そう》右衛門《えもん》と申すものだ」 「すじめ、とは何ですか」  源義は、恐る恐る尋ねた。 「『なんておう』様に忠誠を誓いし者どもの総称でござりまする」  男は歌うような調子で言った。 「『なんておう』様?」  今度は榊が首をひねって、 「その『なんておう』様って、いったい何ですか」  惣右衛門はそれには答えずに、道の奥を指さした。 「この先、一里ほど歩けば、川が二股《ふたまた》に分かれているところがある。左のほうの細い川に沿って行きなされ。貴宮屋敷までは、何とか夕刻までには着くだろう。  弁当は持っておられるか?」 「はい」  角川はうなずいた。宿で用意したにぎり飯が背嚢《はいのう》の中にある。実のところ、先ほどから食べたくて仕方がなかったところだ。 「では、この先、半町ほどに社がある。そこで弁当を使いなされ。まだまだ先は長いからのう」  そう言うと、惣右衛門は再び夏草の中に消えてしまった。 「変わった爺《じい》さんだな」  榊は肩を竦《すく》めると、またすたすたと歩き始めた。源義も後を追った。 「『なんておう』様って、それにしても——」  と、角川は首をひねった。 「なんだい?」 「『なんておう』様って、何なんだろうな」 「さあ、このあたりの土俗の神様か何かじゃないのか。そういうのは君の専門だろう」  榊はたいして関心もなさそうに腹をさすると、 「早く、その神社とやらに行って、弁当を食べようぜ。腹が減って仕方がない」  それは角川も同感だった。  しばらくすると、本当に鳥居があった。丸太をつないだだけの粗末な鳥居だったが、中に入ると、一応小さな社殿が建っていた。人が雨宿りできるぐらいの大きさはある。ただ、その扉には頑丈な南京錠が掛かっていた。 「この軒下でいいよ。とにかく、日を遮ることができれば」  と、榊は言った。 「そのとおりだ。炎天下の河原で弁当を広げるより、こちらのほうがましだろう」  源義は濡《ぬ》れ縁に腰掛ける前に、鰐口《わにぐち》を鳴らし五銭のお賽銭《さいせん》を入れ、柏手《かしわで》を打って頭を下げた。 「おい、さすが國學院だな。神様に挨拶《あいさつ》を通すわけか」  榊は笑って言った。 「君もどうだい?」  源義は勧めたが、榊は首を振って、 「俺は耶蘇《やそ》だからな。そんなこととは無縁だよ」  もう榊は弁当を広げていた。源義もその横に座って、弁当を食べた。塩けのついた何のそっけもないにぎり飯とたくあんだけだったが、それを食べて水筒の水を飲むと、源義は再び歩く気力が出てきた。 「夕方までに着くって言っていたよな」 「ああ。だけど、ちょっと不安だな」  源義は言った。 「なぜ?」 「だって、山の人の足は達者なんだよ。よく民俗学の調査で山奥の村なんかに行くんだが、あと一時間で着くと言われたところが、実際歩いてみると三時間かかったなんてことがざらにある」 「それなら急ごうじゃないか。とにかく、こんな山の中で真っ暗になってしまったら、どうしようもないぜ」 「それもそうだな」  食料も一食分しかないのである。それはすでに食べてしまった。源義と榊は、口数を減らして黙々と歩き続けた。  しばらくして、川の分岐点に出た。左手の奥は、山に登り森の中に入っていく細い道が続いている。これまで歩いてきた道とはまったく違う、本当の山道である。これでは肩を並べて歩くこともできない。まず、源義が先に立って、山を登り始めた。森の中に入ると太陽は遮られ、涼しい風が吹いて、その点は心地よかった。昼なお暗きという言葉があるが、まさにそんな感じであった。  道はだんだん細くなって川沿いに上流に向かっている。ところどころ、険しいところがあった。ほとんど垂直な形で竹で土留めをした階段のようなものがあり、その脇《わき》によじ登るための鎖が垂れ下がっているところとか、急に深くなった谷の上をほとんど丸木一本で渡している橋とか、そういった一歩間違えば結構危ないところを何カ所か通り過ぎて、そのうちに源義は奇妙なことに気がついた。水の音がするのである。それも川の流れというようなものではなくて、大量の水が噴出しているような音だ。 「滝じゃないか」  榊は言った。榊は源義よりも元気だった。  軽い足取りで源義を追い抜くと、道を少し外れて森が切れるほうへ向かった。 「おい、角川、来てみろよ」  榊は突然叫んだ。源義がそちらの方向に行ってみると、視界が急に開け、眩《まぶ》しいほどの光が源義の目を打った。 「ほら、あんなところに滝が」  榊の差し示す方向、急斜面の山を三十メートルほどくだった下に、見事な滝が見えた。滝は山の中腹から噴き出すように水を落としていた。その下は河原になっており、翡翠《ひすい》色の淵《ふち》がある。河原の石の白さは、目に眩しいほどであった。 「下りてみないか」  榊は言った。源義は首を振った。 「いや、やっぱり目的地を目指したほうがいいよ」 「臆病《おくびよう》なやつだな。俺はちょっと行ってくるぜ」  と、榊はさっさと急斜面を下り始めた。源義も、仕方なしに後に続いた。  下りてみると、それは上で見たよりもはるかに姿形のいい滝であった。滝壺《たきつぼ》から吹く涼風は、今が真夏だと思えないほどである。何よりも源義がいいと思ったのは、そのあたりには人の気配がまるでなく、生活の匂《にお》いもないことだった。まさに、自然そのものの滝なのである。ここまで下りてくると、改めて河原にある鮮やかな白い石が陽光を反射するのが眩しかった。  榊は歓声をあげて服を脱ぐと、下帯ひとつになって滝壺に入っていった。 「おい、よせ。危ないぞ!」  源義は慌てて叫んだ。滝壺の水は冷たいのである。 「大丈夫さ。汗びっしょりで、嫌な思いをしていたところだ。汗を流すと気持ちがいいぜ」  榊は滝壺まで水をかき分けて歩いていった。深さはそれほどでもなさそうだった。瀑布《ばくふ》のすぐ近くまで近寄ると、榊は手を伸ばして滝の中に手を突っ込んだ。 「おっ、すげえ。この圧力は、ちょっと浴びるのは無理だな」 「そんな滝、浴びるつもりだったのか」  源義は呆《あき》れて言った。下手をすれば、脳震盪《のうしんとう》を起こす。 「お前さんは慎重なんだな」  榊は笑って、今度は平泳ぎで滝壺の中を泳ぎ始めた。源義は黙ってそれを見ていたが、そのうち突然、顔色が変わった。いや、先に顔色が変わったのは、榊のほうだった。突然、苦痛の呻《うめ》きをあげると、水をばしゃばしゃ叩《たた》くような動作に変わった。 (溺《おぼ》れている!)  源義は慌てて服を引きちぎるように脱ぐと、滝壺に入った。滝壺の水は身を切るように冷たかった。 「おい、つかまれ!」  榊のもとへ行くと、源義はあっぷあっぷしている榊に手を差し伸べ、何とかその手を掴《つか》むと岸まで引き寄せた。榊は真っ青になって、ようやく岸に上がった。呼吸が荒かった。 「す、すまん。どうやら足がつったようだ」 「冷たい水にいきなり入るからさ。俺がいなかったら、いったいどうなっていたんだ」 「悪かったよ。お前は命の恩人だ」  榊は、こむら返りを治すために河原にぺしゃりと座り込むと、足の親指を内側に引っ張っていた。こうすれば、こむら返りを止めることができるはずだ。  そのまま一時間ほど、榊の体力が回復するまで、二人は休まねばならなかった。こむら返りを起こした足はほぼ元に戻ったが、それでも榊の歩みはそれ以前に比べてかなり遅くなった。それが災いしたのだろう。山道をたどるうちに、日はどんどん西の空に傾き、ついに山道の途中で日は完全に没してしまった。目的地の三之公村は未だに見えないというのにである。 (困った)  源義は実のところ、途方に暮れていた。当然、今日中に三之公村に到着し、貴宮家に泊めてもらう予定だったから、野宿の準備はしていないのである。水はいざとなれば小川からとることができるが、食物はもう予備はない。かといって、街灯ひとつない山中を下手にうろつけば、かえって道に迷うことになる。道に迷う可能性がある時は、絶対に現在位置を動くなというのが登山の鉄則である。そのくらいのことは、源義も心得ていた。 「マッチならあるぞ」  榊は言った。もちろん、焚《た》き火をするために必要なものである。 「用意がいいな」  源義は驚いた。 「本当はな、俺、ちょっと煙草を吸うんだ」  榊は、いたずらっ子が告白する時のような表情を見せた。 「煙草?」  もちろん、榊は未成年ではない。しかし、神学生の寄宿舎では、煙草は禁止されているはずだ。戒律は厳しいのである。 「聖書に煙草を吸うな、とは書いてないからな」  と、榊は背嚢《はいのう》から源義が見たこともない外国煙草を出すと、マッチで火をつけて吸い始めた。 「それはどこのだ? イギリスか?」 「いや、アメリカの煙草だよ。ラッキーストライクというんだ」  榊は言った。 「ラッキーストライク?」 「まぁ、幸運の衝撃とでも言うのかな。これがね、俺の一番好きな銘柄なんだよ」 「呆《あき》れたやつだ」 「何でさ」 「一番好きな銘柄ということは、他にもいっぱい吸っているっていうことじゃないか」 「さすがに鋭いな。そのとおりだよ」  榊は道端の石に腰を掛けた。源義も近くの木の根方に腰を下ろした。 「とにかく薪《たきぎ》を探そう」  一服つけながら、榊は言った。 「きっと夜は冷えるだろうからな」 「ああ」  と、源義もうなずいた。  頭の上を見上げると、木々の隙間《すきま》から星は実にきれいに見えたが、月は出ていなかった。源義は、ちょうど新月の頃だということを思い出した。つまり、今日は月が出ないということだ。月の光というと都会人は馬鹿にするが、山奥に来てみると、満月とはいかに明るいものかということに気がつく。本当に満月が出ている夜は、足元が明るく、夜道も歩けるのである。それとは逆に新月の頃は、真《ま》っ暗闇《くらやみ》で、それこそ鼻をつままれてもわからないというほどの真の闇になる。今日はそちらのほうだった。  源義は手さぐりで薪を探した。森だから、枯れ枝の類はいくらも落ちている。ただ、湿っているものは役に立たない。 「おい、まさか狼《おおかみ》は出ないだろうな」  源義は、ふと不安になって言った。 「馬鹿なことを言うな。日本じゃ、狼はいないんだぞ」 「でも、山犬がいるかもしれない」 「心配性だな、お前も」  とにかく源義は、早く薪を探すことだと思った。道の真ん中に薪と枯れ枝を集めた。榊はマッチを二、三本使っただけで、それにきれいに火を付けた。 「うまいもんだな」  源義は感心した。 「何言っているんだ。マッチ一本でつけるのが、本当の名人さ。とにかく、これで少しはましになりそうだな」  漆黒の闇の中から、お互いの顔が薪の明かりで浮かび上がった。黙って火を見つめていると、人間不思議なもので、来し方行く末といったことのさまざまなことが思い出される。 「榊、一度聞きたいと思っていたんだが」 「何だ?」 「どうしてお前は、神を信仰するようになったんだ?」 「ほう、いきなり核心にきたな」  榊は笑って、 「どうしてと言っても、そうだな。こういうことは個人個人それぞれ事情が違うんじゃないか」 「お前の家とは、何の関係もないだろう?」 「ああ、そうだよ。家はだいたい伏見の商人だからな。耶蘇《やそ》とは無縁さ」 「妹の百合子さんも?」 「そうだよ。神の話を聞きたいと言ってきたこともあるが、どうもあいつにはあまり合っていないようだ」  それを聞くと、源義はホッとした。実のところ、源義も本当はあまりキリスト教が好きでない。それより、日本古来の教えのほうにひかれている。 「それにしても、どうしてそんなことを聞く?」 「いや、ちょっと気になったからさ」  源義は伏目がちになると、 「西洋の神っていうのは、日本人にとってかなり異質なものだと思うんだ。その異質な神に、どうして君がひかれるようになったのか。俺はキリスト教の信者の友人が君しかいないので、特に興味を持ったのさ」 「そうだな」  と、榊は頬《ほお》づえをしてしばらく考えていたが、 「それは、人間の根源に対する疑問ということではないのか」 「根源に対する疑問?」 「そう。つまり、人はなぜこの世に生まれてきたのか。あるいは人類というものは、どうしてこの世に出現したのか。それを支配する者は誰なのかという。あるいは、この世界は誰が造ったのかという根源的な問いさ。その問いがあってこそ、やはり宗教というのは生まれるものだと思う」 「はあ、哲学者なんだな、榊は」 「何を言っているんだ。君のやっているような学問とは、最も遠いところにいる人間かもしれないからな」 「いや、そんなことはないよ。西洋でも、キリスト教を母胎とした民俗宗教みたいなものはあるらしいよ。それを調べる学問もある」 「そうなのか。それは俺には初耳だけれども、そういうものがあったら、ちょっとおもしろいかもしれない」 「もし、角川さまのご一行ですか」  突然、後ろから声がした。源義はびっくりして振り返った。そこに、菊水《きくすい》の紋所が入った提灯《ちようちん》を持ち、法被《はつぴ》のようなものを着て裾《すそ》を絡《から》げたわらじ履きの男が立っていた。若い男である。頭は職人のように角形に刈《か》り上げていた。 「いかにも角川ですが、あなたは?」 「それはよろしゅうございました。私は貴宮家の使用人で、熊沢捨吉と申すものでございます。お嬢さまがお待ちでございます。ご案内いたしたいと存じます」  男はにこりともせずに言った。  源義と榊は顔を見合わせた。捨吉は黙って提灯を持ったまま、次の言葉を待っている。 「いや、それはご丁寧に。ほっとしました。よくわかりましたね」 「川上の惣右衛門さんから、お二人がこちらに来るということは聞いておりました。ただ、あまりご到着が遅いので、もしや道に迷われたかと思い、私が迎えに参ったのです」 「それはご丁寧にありがとうございました」  源義はほっとして言った。 「実は、この友人が——」  と、角川は榊に目をやり、 「ちょっと具合が悪くなったので、休んでいたところ、遅くなってしまったのです」 「そうですか。では、ご案内いたしますので、その火を消してもよろしゅうございますか」 「ああ、どうぞ」  源義がうなずくと、捨吉は提灯をその場に置き、焚き火に歩み寄ると、まず手で砂をかけ火を消し止め、そしてその上に立つと火を丁寧に踏みにじった。それは、まさに踏みにじるという形であった。執拗《しつよう》に足でこね回して、火の気を元から断とうとばかりに、何度も何度も強く踏みつけるのである。山火事を警戒しているのだということは、源義は一応はわかったが、そのやり方はどうもあまり見ていて気持ちのいいものではなかった。一通り終わると、捨吉はぱんぱんと手の土埃《つちぼこり》を払い、一礼して再び提灯を持った。 「では、ご先導いたします。こちらのほうへどうぞ」  二人は後に続いた。 「暗うございますので、御御足《おみあし》にお気をつけください。このあたりは石も多く落ちてございます」 「貴宮さんのお宅には、あとどれぐらいですか」 「そう遠くはございません。あと半里ほどでございます」 「半里。というと、二キロもあるのか」  源義は舌打ちした。 「でも、二キロぐらいなら、村の明かりが見えてもよさそうなもんだが」  榊が言うと、捨吉は前を見たまま、 「この先に小高い丘がございます。その丘を越えた奥が谷になっておりまして、三之公村はそこにあるのでございます」 「なるほど、それなら見えなくても不思議はないわけだ」  源義は納得した。  夜道のことで半里の道を歩くのには、やはり一時間ほどかかった。村は谷底の平坦地《へいたんち》をうまく利用した集落で、夜目にも三十軒ほどの家があるのが見えた。二人が誘われたのは、その中心にある最も大きな屋敷である。そこは屋敷というより、大きな屋根瓦《やねがわら》といい、馬に乗ったままくぐり抜けられるほどの大きな門といい、まさに大身の武家屋敷か由緒ある古刹《こさつ》のような立派な建物であった。  門をくぐると、玄関へ通じる石畳の両脇《りようわき》には古風な篝火《かがりび》が左右に一基ずつ置かれ、あたりを明るく照らしていた。源義は、まるで時代劇の世界に来たような錯覚にとらわれた。その突き当たりに玄関があり、大きな衝立《ついたて》の前の式台に女性が手をついて二人を迎えた。 「ようこそお越しくださいました。私が貴宮多鶴子でございます」  その女性は、源義の想像とは違って、若く美しく、まるでこの世のものとは思えないほどの臈《ろう》たけた美貌《びぼう》を持っていた。      六  源義は、思わず唾《つば》を飲み込んだ。そして、言葉がつかえた。こんな美人だとは、夢にも思わなかったのである。 「さあ、どうぞ中に。湯が沸いております」  多鶴子は立ち上がって、衝立のところまで行き、また振り返った。源義は慌てて靴を脱いだ。 「おじゃまします」  二人は多鶴子の案内で、まず奥の間に案内されると、そこに荷物を置き、今度は風呂場に行って湯を浴びた。そこは風呂場というより、古風な湯殿といったような趣の部屋であった。木格子の窓からは山の冷気が流れ込み、肌に当たる風が心地よい。源義は、榊と交代で湯につかった。風呂桶《ふろおけ》は、いい香りのする檜《ひのき》であった。 「豪勢なもんだな」  汗を流しながら、榊が言った。  源義は、湯船につかってぼうっとしていた。貴宮多鶴子のことを考えていたのである。正直言って、多鶴子は榊百合子よりもはるかに美しかった。いや、単に美しいというだけではない。むしろ、今の時代には失われてしまった日本の古来の美というものが、多鶴子の顔に現れているような気すらするのである。こんなに上品で、こんなにたおやかな女性を、源義はそれまで見たことがなかった。 (いったい、あの人はどういう人なんだろう)  歳は十七、八だろうか。それとも、もっと上だろうか。いずれにせよ、若くて美人だということは間違いない。それもとびきりの美人である。 「おい、角川、おい」  突然、榊の声で源義は我にかえった。気がつくと、湯船につかっている源義を、手拭《てぬぐ》いを腰に巻いた榊が外から見つめていた。 「何をぼうっとしているんだ」 「あっ、すまんすまん。代わろう」  源義は慌てて湯船を出た。ざーっという音がして、湯がいっぱいこぼれた。 「惚《ほ》れただろう」  榊はくすっと笑って言った。 「えっ、何が?」  源義はとぼけた。 「わかっているくせに。多鶴子嬢に惚れたな、ということだよ」 「馬鹿なことを言うな」  源義は、赤くなって否定した。  風呂を出て、備え付けの浴衣《ゆかた》に着替えると、奥に食事の支度がしてあった。中央の客間は十畳敷以上もある立派なもので、床の間には南画の掛け軸が掛けられ、光沢のある薄青色の花瓶には夏の花が数種|活《い》けてあった。その前に、源義と榊は座らされた。食事は二の膳三の膳までついた立派なものである。 「ようこそお越しくださいました」  貴宮多鶴子は、膳部を前にしている二人に、畳に手をついて丁重に挨拶《あいさつ》した。白|綸子《りんず》の着物を着ている。 「いえ、丁重なお迎え、恐れ入ります。私が折口先生の名代として参りました、角川源義です。こちらは友人の榊増夫君」  そう言って、源義は頭を下げた。 「ご厄介になります。何とぞ、よろしくお願いします」 「こちらこそ。まあ、今日は旅のお疲れもあるでしょうから、お酒でも召し上がって、ゆっくりお休みになってください」  そう言うと、その言葉を待っていたかのように、中年の女中が二人現れ、酒器を運んできた。多鶴子はそこから漆塗りの瓶子《へいし》を取り上げると、源義に杯を渡し酒を注いだ。 「恐れ入ります」  源義は顔を赤らめて、それを受けた。  赤い朱塗りの杯には、中央に菊水の紋が描かれてある。菊水とは十六花弁の菊の下に水の流れを描いたもので、南朝の後醍醐天皇に仕えた忠臣楠木|正成《まさしげ》が下賜《かし》されたと伝えられるものである。言うまでもなく、菊は皇室の紋章であり、それ以外の者が勝手に使うことはできない。 「こちらは、やはり楠木正成のご系統なんですか」  源義は酒を一口すすると、何気なく多鶴子に尋ねた。多鶴子はゆっくりと首を振って、 「いいえ、うちの家系は、楠木家とは何の関係もございません」 「へぇ。それでも菊水なんですか。めずらしいな」  源義は言ったが、多鶴子は微笑《ほほえ》むだけで、それ以上は答えようとしなかった。 「このお屋敷は古いんでしょうね。由緒あるものですか」  と、今度は榊が聞いた。多鶴子はうなずいて、 「ここに移り住んでからは、五百年ほどになりますかしら」 「五百年?」  榊は、源義と顔を見合わせた。 「つまり、それはやはり室町・南北朝の頃からということですか」  多鶴子は、無言で笑みを浮かべてうなずいた。 「ほう、たいしたもんだな」  榊は感心して、 「これは指折りの旧家だ。角川、よかったな。ここはきっと民俗学の宝庫だぞ」 「そうだといいが」  源義はそう言って、まるで多鶴子のことを疑っているかのように言ってしまったかと思い、慌てて訂正した。 「いや、僕は別に貴宮さんを疑っているわけではなくて——」 「よろしいですのよ。わかっています。  さあ、さあ、今日はそんなことはお忘れになってお過ごしください」  多鶴子はそう言って、また酌をしてくれた。旧家の子女の念の入ったサービスに、源義はうれしくなって、何度も杯を重ねた。その後どうなったか、よく覚えていない。泥酔した源義は、榊と貴宮家の女中に肩を担がれて、寝室まで運ばれたらしい。  寝室は庭に面した、八畳敷の日本間であった。障子は開け放たれ、中に蚊帳《かや》が吊《つ》ってある。蚊帳の中にもぐり込んで布団に入った時、源義はまだ朧気《おぼろげ》ながら意識があったが、しばらくすると、旅の疲れと酒の酔いが相まって、深い眠りに落ちた。  それから、どれぐらい過ぎただろう。源義はふと目覚めた。上のほうに蚊帳がうつった。頭を横にめぐらすと、榊が大|鼾《いびき》をかいて、布団を剥《は》いで寝ていた。源義は、布団を剥ぐって立ち上がった。喉《のど》が渇いていた。酔いざめの水が欲しかった。蚊の入らないようにうまく蚊帳をくぐると、源義は廊下づたいに母屋のほうに歩き出した。灯りはなく、家人は寝静まっているようだが、井戸にでも行って水を飲もうと思ったのである。  台所はどこかわからなかった。ちょうど、庭の沓脱《くつぬ》ぎ石のところに草履《ぞうり》が置いてあったので、源義はそれを履いて庭に下りた。庭は田舎の山奥とは思えないほどの、むしろ室町時代にできた禅寺にあるような見事な庭園だった。  源義はろくな灯りもないまま、道をたどって玄関のほうに回って、ふと本能的に身を隠した。人の気配がしたのである。別にやましいことはなかったが、不思議に木の陰に身が動いた。突然、闇の中で松明《たいまつ》を持った集団が出現した。昔の侍が着る裃《かみしも》を身につけ、袴《はかま》に威儀を正した集団である。先頭の男は松明を持ち、それに五人の男が続いていた。それだけならどうということもないが、その五人が五人とも、口に木の葉をくわえていたのである。何の葉っぱかはよくわからなかったが、とにかく葉を横向きにくわえている。それは五人とも真面目な顔をしているだけに、実に不気味な光景であった。 (何だろう)  源義は、物陰から様子を見守っていた。そうすると、今度は白衣に赤い袴という、まるで神社の巫女《みこ》のようなかっこうをした女性が、その前に姿を見せた。源義は驚いた。それは紛れもない、貴宮多鶴子その人であったからである。  多鶴子がその前に出ると、五人は葉をくわえたまま松明を下ろし、膝《ひざ》を屈《かが》めて一礼した。そして、松明の男が先頭に立ち、その次に多鶴子、そして残りの四人の男が二人ずつ二列縦隊になって後を歩き始めた。源義は、好奇心に駆られて、その後を追った。  村はずれまでくると、社《やしろ》があった。白木の鳥居のある、かなり大きな社である。その中に入ると、一行は社に通じる石畳の上をひたひたと進み、その神殿の階《きざはし》を上がった。源義が驚いたことに、その道の石畳の両側には、同じ服装、同じ木の葉をくわえた男たちが数十人も片膝をついて控えていたことだった。松明の光で見るだけだから、よくはわからないが、少なくとも三十人はいるのではないだろうか。  多鶴子は神殿に着くと、階を上がった。その後に家来のようについていた二人の男が、多鶴子の先に立って神殿の扉を左右から同時に開いた。観音開きになった扉の奥に、祀《まつ》られた神輿《みこし》と供え物の三方《さんぽう》がうつった。三方は神座の前の台の上に三つ並べられ、それぞれ御神酒《おみき》や供え物が並べられている。奥の神座には、依代《よりしろ》となる神鏡かそれとも別のものかよくわからないが、何かが祀ってあった。  そして、源義が最も驚いたのは、その上の普段は神座を覆っているであろう幕の中央に掲げられた紋が、十六花弁の菊紋であることだった。菊水ではない、菊紋である。菊水のような菊の変わり紋は、特別な下賜を受けた臣下や皇族たちが使うことができるが、本物の十六花弁の菊は天皇の一族しか使えない。その紋が堂々と刻まれていたのである。  多鶴子は、お付きの者からさかき[#「さかき」に傍点]を受け取ると、神座に丁寧に一礼した後、さかきを振ってお祓《はら》いの所作をした。そして、懐から奉書紙に書かれた書状のようなものを取り出すと、それを開いて読み始めた。その声はあまりに小さく、源義のところからは何を言っているかは聞こえなかった。  だが、驚いたことに、その時、すすり泣きの声が聞こえた。泣いているのだった。周りに控えている裃《かみしも》姿の男たちが泣いている。葉を口にくわえたままで、ずっと忍ぶように、しかし明らかに泣き声が聞こえるのである。  多鶴子の神への奏上は、十分ほどで終わった。多鶴子は書状を丁寧にたたむと懐にしまい、さかきをお付きの者に返し、神座に一礼すると、そのまま後ずさりした。そして、多鶴子が神殿を出ると、お付きの者が扉を閉めた。扉を閉めたところで、初めて多鶴子はくるりとこちらを振り返り、一同の者を見渡した。もうすでに、すすり泣きの声はおさまっていた。だが、多鶴子も葉をくわえた男たちも、一言も言葉を口にしなかった。  そのうちに石畳の上に、男衆の中から年かさの男が進み出た。その男は顔を上げると、くわえていた葉を右手で取り除き、多鶴子に向かって一言言った。 「誠忠《せいちゆう》かくの如きでござりまする」  それが、この一連の儀式の間の中で初めて発せられた言葉らしい言葉であった。源義は驚いた。それは、昼間、筋目と名乗った川上惣右衛門という老人に他ならなかった。それに対して多鶴子は、まるで高貴な貴族の女性がするように鷹揚《おうよう》にうなずき、 「確かに見届けたり」  と、一言言った。それだけだった。川上惣右衛門は頭を下げると、後ろに下がり、多鶴子は松明を持つ男の先導で、再び石畳の上を歩き始めた。社を出るのであろう。 (いかん、こちらに来る)  源義は慌てて元来た道を引返し、貴宮家に戻った。儀式の途中、その人に声をかけるのは憚《はばか》られたし、何よりもこの儀式が持つ、人を寄せつけぬ排他的な空気が、源義に姿を見せることを躊躇《ためら》わせたのである。  源義はそのまま戻ると、水も飲まずに蚊帳《かや》をくぐり、榊の隣の床に入った。 (いったい、あれは何だったのだろう)  何かよくわからないが、重大な秘密を見てしまったような気がした。源義はしばらくの間、頭が冴《さ》えて眠れなかったが、やがて、また昼間の疲れが出たのか、いつの間にか眠ってしまった。      七  翌朝、夜明けを過ぎた頃に、女中たちが早々と床《とこ》を上げに来た。蚊帳をとり、床を上げると、源義は昨日着ていた服に着替えた。 「朝餉《あさげ》の支度が整いましてございます」  そう言う女中の案内で、再び昨日の広間に戻り、朝食を終えた。  終わった頃に、貴宮多鶴子が朝の挨拶《あいさつ》に来た。昨日とは違うが、普通の着物である。巫女《みこ》の服装ではない。 「お口に合いましたでしょうか」  多鶴子はそう言って、頭を下げた。 「はい、大変おいしくいただきました。ありがとうございました」  源義は、昨晩のことも聞きたいと思ったが、まず用件に入らなければならなかった。折口信夫の名代としての責務を果たすのである。 「貴宮さん、それでいよいよ本題に入りたいと思いますが、折口先生に頂いた書簡にある源氏物語の件ですが——」  それを聞くと、多鶴子は覚悟していたように表情を引締め、その場に両手をついて深々と頭を下げた。 「申し訳ございません。あれはなかったことにしてくださいませ」 「えっ?」  源義は驚いて、言葉を失った。それでは何のために、この山奥まで来たのか。源義が呆然《ぼうぜん》としていると、代わって榊が言葉をかけた。 「貴宮さん、それは困りますね。われわれはその本を見せていただくために、わざわざ半日かけて、この山奥まで来たんですよ。それに、そもそもそれを見せたいとおっしゃったのは、あなたの方じゃありませんか」 「おっしゃるとおりでございます」  多鶴子は両手を床についたまま、 「申し訳ないとは思っています。しかし、どうしてもできなくなりました。何とぞ、このままお帰り願いとうございます」  源義と榊は途方に暮れたが、今度は源義が尋ねた。 「貴宮さん。これでも私は折口先生の名代です。子どもの使いではありません。ただ、なかったことにしてくれ、お帰り願いたいと言われても、それだけでは使者の役目を果たしたことにはならないのです。どうか、お教えください。まず、お手紙にあったような源氏物語というのは、確かにこの家にあるんですか」  多鶴子は答えを躊躇《ためら》っていた。しかし、やがて決心したように、 「確かにございます」  と、答えた。  源義はほっとして、 「では、なぜそれが見せられないのです? 今も、この屋敷の中にあるんでしょう?」 「はい。ございますが——」  多鶴子は当惑して、言葉を切った。  源義は困った。多鶴子を悩ませたくはないのである。しかし、それではここまできた甲斐《かい》がない。  榊が助け船を出した。 「貴宮さん、あなたはそういう本があることを、わざわざ東京の折口先生のところまでお知らせになったわけですね。ですから、その時点では折口先生に見せる意志があった。そうですね?」 「はい、そのとおりでございます」 「それが今になって急に駄目ということは、どなたかがそれを駄目だと言ったからではないのですか」  源義は感心した。確かに論理的に考えれば、そうである。 「はい」 「その方は、どなたです?」  榊は追及した。 「私の祖父でございます」 「祖父、つまりお祖父《じい》様ですか」 「はい」 「では、そのお祖父様に会わせてくれませんか。直接、頼んでみたいと思います。  なあ、角川。それがいいだろう?」 「ああ、そうだな。ぜひ、お願いしたいものだ」  しかし、多鶴子はそのことにも首を振った。 「それが申し訳ないのですが、祖父は病気でございまして」 「病気?」 「はい」 「どんな病気です?」  榊が遠慮なく聞くと、多鶴子は言葉を詰まらせたままうつむいてしまった。あまり愉快な病気ではないらしい。もっとも、病気に愉快なものがあるわけはないが。 「どういうことなんです?」 「いや、もういいよ、榊」  と、源義は思わず言った。 「答えたくないものを、無理に答えさせることはない」 「だけど、折口先生に何て言い訳するんだ。山奥まで行きましたが、見せてもらえませんでした。理由を聞いたけど、答えてくれませんでしたって、それじゃあ話にならないだろう」 「でも、こちらがお話ししたくないものを——」 「いえ、こちら様のおっしゃるとおりです」  と、多鶴子は顔を上げて、 「それでは納得できない、というのはごもっともです。事情を申し上げます」  と、多鶴子は居住まいを正すと、 「実は、あの源氏物語というのは、当貴宮家の家宝でして、この屋敷の奥にあります開かずの蔵の中にあった宝物なのでございます」 「開かずの蔵?」  源義は、思わず口をはさんだ。 「はい。それは、この貴宮家がこの地に参りまして以後、歴代の当主しか出入りしてはならぬという伝来の家宝を伝えた蔵なのでございます」 「その中に源氏があったんですね」 「ええ」 「でも、あなたはどうして、その蔵に?」 「それは恥を申しますが、祖父が脳卒中の病にかかりまして、体が動かなくなり、ろくに言葉も発せられなくなったために、貴宮家の家督を私が継ぐことになったのでございます」  それを聞いて、二人は妙な顔をした。祖父の後を孫娘が継ぐというのは、いったいどういうことなのだろうか。 「私には父も母もおりません。母は若い頃、病で亡くなり、父も数年前に事故死いたしました。私はひとり娘でございます。この貴宮家を、残された祖父と私で守ってまいりましたが、祖父がかような状態になりましたので、隠居し、この家を私に継がせるということになったのでございます。そこで、私は初めて開かずの蔵の鍵を受け取り、中に入ったのでございます」 「そこで、源氏物語を見つけたというわけですか」 「はい。私はこのような秘宝を山の中で埋もらせてはいけないと思い、折口先生にお知らせしたのでございます。ところが、これまでずっと寝たきりで何もわからなかった祖父が、昨日になって元気を取り戻したのでございます。そこで、私はそのことを申したところ、祖父は激怒いたしまして、絶対にならんと申すものでございますから」 「そうですか。それは残念だな」  源義は舌打ちした。しかし、この分では、今手に入らなくても、近々手に入ることにはなりそうだとも思った。言うまでもなく、多鶴子には悪いが、多鶴子の祖父が死んでしまえば、文句を言うものはいなくなるのである。 「ひょっとすると、貴宮さん、その蔵にはまだまだ他に貴重な宝物がいっぱいあるんじゃありませんか」  榊は、身を乗り出して言った。 「はい。それは五百年来のものでございますから、書画|骨董《こつとう》の類はいくつかございます」 「いや、僕の言っているのはそういうことではないんです。源氏物語のように、日本の歴史を変えるようなものが、その蔵の中には入っているんじゃありませんか」  榊の追及に、多鶴子ははっと表情を変えたが、それも一瞬のことで、 「いえ、そのようなものはございません」  と、答えた。  だが、源義にもそれは嘘だということは、見ていてわかった。 「貴宮さん。僕は昨日から不思議に思っているのですが、この家はどういう家なんですか」 「————」 「ひょっとしたら、ここは南朝の、つまり後醍醐天皇の末裔《まつえい》の方がいらっしゃる家ではないでしょうか」  思い切った推理だった。榊のその言葉に、源義は驚いた。  この二十世紀の世の中に南朝の正統な子孫がいるなどということは、とうてい信じられないことである。だが、そう言われて、源義は思い当たることがあった。 (あの菊の紋)  そうだった。確かに昨日の儀式で、神社の奥に祀《まつ》られていた祭壇の上には、十六花弁の菊が掲げられていたのだ。 (そういえば、菊水の紋も変だ。楠木の系統じゃない貴宮家が、なぜ菊水なんか使うんだ。ひょっとして、菊水の水は隠れ蓑《みの》で、本当は菊の紋ということじゃないのか)  源義は身を乗り出して、多鶴子の返答を待った。多鶴子は否定はしなかった。 「申し訳ございませんが、そのことについては他家へ漏らしてはならないということになっております」 「なるほどね。他家に漏らしてはいけない」  榊は言った。 「ということは、それは間違いではないということじゃないですか。ここはやはり、南朝の末裔の家なんですね。そして、そこにはその正統性を示す宝物があるんじゃないですか」 「待てよ、榊」  源義は慌てて言った。 「それはいくらなんでも、飛躍した推理じゃないかな」 「そうかな。俺は、そうは思わん」  榊は自信ありげに、 「この人が、折口先生に言った例の源氏物語だが、もし本当だとすると、源氏物語の最も古い写本の一つということになるだろう。そうじゃないか、角川」 「それはそうだが」 「考えてみろよ。そんな古い写本が、どうして、失礼だが、旧家とはいえ、こんな山の中の家に伝わっているんだ」 「————」 「考えられるのは、一つしかない。源氏物語というのは宮廷文学で、宮廷の人に愛されていたものだ。ということは、宮廷筋でなければ、そういうものは持っていないということになる。特に古い写本なら、なおさらそうだ。足利幕府との争いに敗れて、この吉野に逃げてきた南朝の帝王たち。その帝王たちとそういうものとは、極めて直截《ちよくせつ》につながるのではないかな」  榊の言葉に、源義はすぐに反駁《はんばく》の言葉は見出せなかった。極めて突飛で、極めて可能性の薄い説かもしれない。だが、そういうことがまったくないとは言い切れないのであった。 「多鶴子さん、どうなんです?」  源義は、思わず多鶴子の名前を口にして問うた。多鶴子ははっとしたように源義の口元を見たが、それでもその口からは頑《かたくな》な言葉しか漏れなかった。 「今も申し上げましたとおり、先祖の家訓で、そのことは申し上げてはならないことになっているのです」 「多鶴子さん、『なんておう』というのはいったい何のことです?」  源義は、そのことを口にした。多鶴子はぎくりとしたような表情を見せた。 「昨日、ここへ来る途中で会った川上さんが、筋目と言っていましたが、あれもどういうことなんです? 何か、この山里には秘密があるようですね」  多鶴子のことを思いやって、何も聞かないで済まそうと思っていた源義だが、ここまでくると好奇心を抑え切れなかった。いや、それは単なる好奇心とは言えない。もし、室町時代初期の資料がこの山里に眠っているとすれば、それはこの国の歴史を変えるだけの巨大な力を持つかもしれないのだ。国文学を学ぶ者として、そして日本の歴史に関心がある者として、そのことは見過ごしにできないことだった。 「申し訳ございません」  多鶴子は三たびそう言って、畳に両手をついた。 「どうか、お引取りください。くれぐれもご無礼はお詫《わ》びいたします」  多鶴子はそう言った。そして、それ以後は源義や榊がいくら質問しても、何ごとも答えようとはしなかった。  二人は、その日の昼前に三之公村を後にした。 [#改ページ]   第二章      一  夏休みが明けた。源義は、故郷の富山から東京に戻った。  三之公村での顛末《てんまつ》は、すでに手紙で折口のもとに送ってあった。だが、詳しい報告をしなければならないので、源義は國學院の門をくぐると、すぐに折口研究室に出頭した。折口はデスクに向かって何やら書き物をしていた。 「先生、ただいま戻りました」  源義は帽子をとって挨拶《あいさつ》した。 「おう、角川君か。この間の件はご苦労だったね」  折口は源義を椅子《いす》に座らせ、その労をねぎらった。 「申し訳ありません。とんでもないことになってしまいまして」 「いや、よくあるんだよ。例えば仏像とか家宝とか、そういったものを見せてくれるからと言って行ったら、先祖が夢に出てきて見せるなと言ったから駄目だとかね。まあ、学問の調査では、よくあることなんだ。気にすることはない」  しかし、そう言いながらも、折口はペンを置くと、ちらりとガラス窓から校庭のほうに視線をやり、おもむろに視線を源義のほうに戻して言った。 「それにしても、少し惜しかったような気はするな」  源義は恐縮した。それが、やはり折口の本音なのだ。 「どうやらあそこは、歴史の宝庫かもしれないなどということを君は書いていたね」 「はい。手紙では詳しく申し上げられませんでしたが、実はこういうことなのです」  と、源義は友人榊の推理も交えて、三之公村での体験を語った。 「なるほどな。君の見た儀式というのは、なかなか興味深いな」  折口は言った。 「先生、あれはいったい何だったんでしょう?」 「それは、たぶん君の見た菊の紋に関係があるだろう。それから、口にくわえた木の葉もね」 「あの木の葉は、どういう意味でしょうか」 「まあ、私の推測を言えばだな」  と、折口はひと呼吸置いて、 「おそらく、それは余分なことは他言せぬという決意を、形で表わしたものと見るがな」 「なるほど、では、最後に葉をとって言ったことは?」 「そう、それが儀式の要《かなめ》だ。おそらく、それは滅びし南朝の天皇に対して、忠誠の誓いを新たにするという意味があるのではないかな」 「なるほど、そういうことでしたか。調査に値しますね」 「いや」  折口はそう言って、ちょっと眼鏡の弦《つる》に手を触れ、眼鏡をずり上げると、 「そこは、あまり深入りしないほうがいいかもしれない」 「なぜですか、先生?」  源義は、驚いて言った。 「実に、興味深いことではないですか。五百年の昔の」 「いや、そのあたりは危ないんだよ」 「危ない?」 「そう。忘れちゃいけないよ、角川君。刑法には、不敬罪というものがある」  不敬罪。皇室に対する無礼を厳しく罰する法律である。 「君は、まだ未来のある若い学徒だ。うっかりこういう問題にからんで、警察|沙汰《ざた》にでもなるようなことがあったら、親御さんに対しても申し訳が立たない」 「僕は別に構いませんけどね」  源義は言った。正直言って、師のそういうところはあまり好きではなかった。怖がりすぎていると思う。学問の前には、天皇も庶民もないはずだ。  だが、折口は笑って、 「そういうのを了見《りようけん》が若いというのさ。まあ、よく考えなさい。そんなことをしなくても、学問の研究はできるはずだ。もっとも、その源氏物語が手に入れば、こんなうれしいことはないがね」 「何とかなるかもしれませんよ」  源義は思わず言った。 「ほう、どうするんだ?」  折口の言葉に、源義は自分の言ったことが何の根拠もないことに気がついた。 「いえ、ただそういう予感がしただけです」 「予感ね。君も少し神がかりになってきたな」  折口は、そう言って笑った。  源義は研究室を出ると、図書館で少し調べ物をした。中世の語り物についての論考を、さらに書こうと思っていたのだが、どうも『太平記』とか南朝とかいう見出しを見てしまうと、あのことが気になって頭を離れない。  もし源氏物語があるとしたら、それはいつどこで誰が書いたものであろう。源義は推理してみた。おそらく、貴宮家にある源氏物語、というよりも原・源氏物語というべきか。それがもしあるとしたら、やはりその原型は紫式部が書いたものであろう。紫式部が一つの首尾一貫した物語として書いたのを、後世の人間が紫式部の意図しなかった物語を次々と挿入したために、全体として統一感がとれないものになってしまったのではないだろうか。だからこそ余分な話が挿入される前の紫式部が書いた原型に最も近いものであるはずだ。いや、ひょっとしたら、本当の意味での紫式部原本、つまり紫式部直筆の本であるということすら考えられる。  そう考えて、源義はだんだん興奮してきた。本というものは、最初に著者が書いたものがそのまま残っているケースは、極めて稀《まれ》である。紙は消耗品であるからだ。長い時代の間に、何人もの手によって写され写され、後世に残っていく。例えば日本書紀も、できたのは七世紀だが、七世紀の本は今は残っていない。一番新しい本でも、戦国時代に写本されたものであろう。それを写した時、その前の本はどうなったのか。保存されたか、あんがい焼き捨てられたか、埋められてしまったかもしれない。そういった古い本を丁重に埋葬するということは、よくあることなのだ。今だったら、どんな形でも、とにかく断片だけでも後世に残そうと思って保存しておくものだが、昔の人はそういう考え方をしない。  しかし、さまざまな物語を挿入される前の原型の源氏物語がもしあるとすれば、それは平安時代の宮廷で女官として中宮彰子に仕えていた紫式部が最初に書き、誰かに献上した本である。誰か、それは中宮の彰子か、その父であり天皇の外祖父でもある藤原道長かもしれない。いや、たぶん中宮彰子であろう。中宮彰子に献上されたからこそ、その本は皇室の宝物として残ったのだ。それが南北朝分裂の時に、南朝側の天皇がさまざまな宝物と一緒に持ち出したのだろう。三種の神器だって、一時は南朝側の手にあったのだ。 (まてよ)  源義はその時、とんでもないことに気がついた。三種の神器は北朝側、つまり現在の天皇家に取り戻されたことになっている。しかし、本当にそうなのだろうか。三種の神器は南北朝時代、南朝側に奪われたり北朝側に奪われたり、さまざまな流転を経験している。北朝側としては、自分たちが三種の神器を持っているということにしなければならない。そうしなければ、真の天皇とは言えないからだ。だが、もし南朝側がそれを北朝側に返さなかったとしたら、今でもそれを持っているとしたら、それはいったいどこにあるのだろう。それこそ、貴宮家の開かずの蔵ではないか。 (いや、まさかそんなはずは)  源義は慌てて、その頭の中に浮かんだ妄想を振り払った。そんなことはあるはずがない。三種の神器は、正統な皇位の象徴である。それは今も、宮中の賢所《かしこどころ》の中に安置されているはずだ。もし、三種の神器がそこにないとしたら、この国の歴史が根本から引っ繰り返ってしまう。少なくとも、江戸時代以来の考え方では、三種の神器を持っている者こそ、真の天皇であるからだ。  第一、貴宮家が南朝の後裔《こうえい》であるという確証は何もないのである。確かに菊の紋を使っている。貴宮という姓も、何やら由緒ありげだ。だが、南朝の子孫は他にもたくさんいたはずだし、何よりも後醍醐天皇の末裔というからには、嫡流《ちやくりゆう》でなくてはいけない。つまり、長男の系統でずっと正式に家督を継いでいた形でなければならないのだ。もし、万一仮に貴宮家がそういう家系であったとしても、それを今さらどうやって証明するというのだろう。証明のしようがないではないか。  もうよそう。そう思って、源義は立ち上がった。確かに、これは深入りすると危険だという師の折口の忠告は正しいと思った。こんなことに係わっていたら、特高《とつこう》警察に思想犯としてあげられる可能性もある。      二  源義は図書館を出ると、下宿に戻ることにした。源義の下宿は、國學院から歩いて十分ほどのところにある豆腐屋の二階である。途中、腹が減ったので、源義はそば屋に入った。更級庵《さらしなあん》と言って、ここのそばはちょっといける。金がないので、いつものようにかけそばを注文した。十六銭だ。本当は夏はもりそばのほうがおいしいのだが、源義はつゆもたくさんあって満腹感の得られるかけそばのほうを好んでいた。  源義が額に汗を浮かべてそばをかき込んでいると、同郷で国文科にいる佐沼が入ってきた。佐沼は源義より二つ下だが、入学した年次は同じなので、今は対等の言葉遣いをしている。 「角川は、よくそんなもん食うな。暑くないか」  源義の席の前に座った佐沼は呆《あき》れたように言って、もりそばを注文した。 「かえって、汗をかいたほうがいいのさ」  源義はそう言うと、つゆまで全部飲み干した。佐沼は苦笑して、運ばれてきたもりそばを豪快にかき込んだ。源義はお茶をもらって飲みながら、それを黙って見ていた。 「おーい、そば湯くれ」  佐沼は叫んだ。源義はそれを待っていたように、たずねた。 「源氏物語って、詳しいか?」 「うん?」  佐沼は熱いそば湯をそば猪口《ちよく》に注《つ》ぎながら、顔を上げた。 「まあ、専攻しているからな」 「それはいい。ぜひ、聞きたいことがあったんだ」  源義は言った。 「中世の語り物が専門じゃなかったのか?」 「そうだが、こいつはちょっと別の話だ。折口先生の、言ってみれば特命事項さ」 「ほう、特命事項とは大変だな。で、どんなことを調べてるんだ?」 「源氏物語多作者論」  源義は言った。  それを聞くと、佐沼はそば猪口を持ち上げ、そば湯を一口すすると、 「それはおもしろい話だけどな」 「知ってるのか?」 「おいおい、馬鹿にするなよ。これでも、俺は源氏物語を中心とした中古文学を専門にやっているんだぜ」 「その目から見て、どうだ、多作者論は?」 「いただけないな」 「そうかな。どうしていただけないんだ?」 「だって、あんなものは哲学者の和辻哲郎が言った説だろう。哲学者なんて、そもそも専門家じゃない」 「おいおい、それはおかしいだろう」  角川は笑って、 「専門家だからと言って、正しいとは限らない。現に、あの話についてはかなり根拠があるもんだと、俺は思っているんだが」 「ほう。中世の語り物の専門家が、源氏物語について大きく出たな。じゃあ、御説を拝聴しようか」  佐沼が挑戦的に言った。  源義はうなずいて、 「まず、第二巻の帚木《ははきぎ》の巻の書き出しだよ。あれは確か、光源氏というのは実に華やかな名前で、そのもてはやされる名前の何と素晴らしいことだろう、という書き出しで始まっていたよな」 「そのとおりだ」 「そして、こういう漁色|沙汰《ざた》を後の世まで語り継がれ、軽々しい浮名を流すようなことはしたくない、ということも書かれていた」  佐沼はうなずいた。 「ところが、第一巻の桐壺《きりつぼ》の巻では、源氏というのは結局十二歳の少年であり、亡き母の桐壺の更衣によく似ている父の新たな女、つまり継母でもある藤壺《ふじつぼ》のことを思い、純愛を捧げているじゃないか。つまり、第一巻で純愛を貫く十二歳の少年だった男が、第二巻の帚木の冒頭では、もうどちらかというとドン・ファンのような男に書かれているじゃないか。これは変だとは思わないのか」 「それは和辻哲郎の『日本精神史研究』の中にある論文そのままじゃないか。  確か言っていたよな、和辻哲郎は。帚木の書き出しは大変に解釈しにくい文章だと。そう、どこからどう読んでも、巻一桐壺からはつながらないと断じていたんじゃなかったかな」 「そうだ」 「じゃあ、和辻先生の弟子たる君に言うけども」  と、佐沼はからかうように、 「この間、五年ある。つまり、純情な少年である光源氏は十二歳だ。それが、第二巻の帚木ではすでに十七歳になっている。十二と十七だぞ。しかも、昔のことだ。十二歳というのは確かに子どもだが、十七歳といったら、もう場合によっては結婚もしているような年齢じゃないか」 「だから、このつながりの悪さは当然だというのか?」 「そうさ」 「だが、おかしいじゃないか。帚木の書き出しには、光源氏はかなり浮名を流したということが書いてある。十二歳から十七歳のわずか五年間のあいだに、それほど浮名を流したというのか」 「五年という期間は、浮名を流すには充分な期間じゃないのか?」 「いや、それは壮年なら別だよ。だけど、十二歳から十七というのは成長過程だ。実際、大人の体になるのはよく言って十五、まあ十六からだろう。最大二年ということだよ。その中で浮名を流したというのは、実に不思議なことだがな」 「そうか? 俺はそんなに不思議なことだとは思えない。いかにも好色家、ドン・ファン、光源氏にふさわしいじゃないか」 「いや、待ってくれ。そもそも源氏物語というのは、光源氏が浮名を流す物語だろう。それなのに、なぜそんな書き方をするんだ。第一巻桐壺と第二巻帚木の間に浮名を流すというようなこと、つまり女性との付き合いがあったら、どうして後段の例えば空蝉《うつせみ》とか夕顔とか末摘花《すえつむはな》のように、それを書かないんだ?」 「それが作者の技巧さ。君も文学をやっている者なら、文芸には省略という技巧があるのは知っているだろう? 何でもかんでも書いたら、小説にならないじゃないか」 「それはわかっているが、この省略の仕方はどうしたっておかしい」 「そうかな。俺は感覚の問題だと思うがな」  佐沼はそう言って、そば湯を一気に飲み干すと、 「まあ、公平を期して言えば、あの与謝野晶子も、第一巻桐壺は第二巻帚木の後に書かれた、つまり帚木が事実上の第一巻だとは言っているよ。まあ、それだってありえないことじゃない。第二巻帚木をドン・ファン、大人の光源氏の姿から物語を始めた作者は、そのうち周りの人間から、じゃあ光源氏の少年時代はどうだったのかと問われて、それを新たに書き足したということだって考えられる。いずれにせよ、それは一人の作者が書いたという例証にはなっても、源氏物語が多数の作者に書かれたということにはならない」  源義は言い返せなかった。もともと源氏物語は専門ではないから、拾い読みした程度で、まだしっかり全巻を通して読んだことはないのである。 「どうした、降参か?」  佐沼が笑って言った。 「うん、今日のところはな」  源義は言った。 「もう少し勉強するよ。ちょっと知識不足で、君には対抗できない」 「おやおや、意気|軒昂《けんこう》だな。じゃあ、期待しているよ。それでは、お先に」  佐沼はそば代を払うと、さっさと出ていってしまった。源義も、ちょっと間を置いて外に出た。  下宿に帰る道とは逆の、國學院のほうに向かった。この際、源氏物語をもっと勉強してやろうと思ったのである。それについて一番いいのは、まず源氏物語を精読することだ。源義は大学前の本屋に入った。 「源氏物語ある?」 「ああ、あるよ」  親父は立ち上がって、棚の奥を指さした。 「文庫本のほうがいいだろう?」 「ああ、そのほうがありがたい」  源義は言った。豪華本を買うような金は持っていない。 「岩波文庫で全六巻だ。一つ二十銭。それでいいかい?」 「ああ、いいですよ」  源義は岩波文庫を愛読していた。文庫というのは、何しろ安くていい。大きさも手頃だし、どこでも読めるところがありがたかった。  源義は、その六巻本の源氏物語を買うと、家へ帰って一度まず通読した。午後日の高いうちから始めたが、読み終わった時には真夜中になっていた。源義はもう一度、眠りもせずに、今度は宇治十帖《うじじゆうじよう》を除いた四十四帖を読み通した。ところどころノートをとった。  今まで、源義は源氏物語を紫式部一人が書いたに違いないという先入主を持って見ていた。だが、今度その先入主を外して見てみると、驚くような発見がいくつかあった。源義はそのまま夜明け近くまでノートをとり、ついに睡魔に耐えきれず、座り机に突っ伏したまま寝てしまった。      三  目が覚めると、もうお昼近かった。 「角川さん、お客さんですよ」  下宿のおばさんが下から呼んだので、目が覚めたのだ。階段をとんとんと上がってきたおばさんに、源義は、 「お客って誰です?」  と尋ねた。 「きれいな娘さんだよ。あんたも隅に置けないね」  おばさんは、そう言って笑った。 「えっ?」  源義は驚いた。そんな心当たりは、まったくなかったからだ。 「名前は何て言っていました?」 「榊さんとかおっしゃっていたわね。どうする? 通すかい?」 「ええ、ちょっと待ってください」  源義は慌てて、周りに散らばっている参考書の類を机の上に積み上げた。床《とこ》が敷いてなかったのは幸いだった。  それから、源義は慌てて髪の毛を手でなでつけた。昨日は風呂にも行っていないので、髭《ひげ》も剃《そ》っていない。 「こんにちは」  それは着物に袴姿《はかますがた》の百合子であった。源義は慌てたあまり、 「ど、どうしたんです? 突然」  と言ってしまった。  百合子は申し訳なさそうに、 「ご迷惑でしたかしら?」  と言った。  源義は慌てて首を振って、 「いえ、迷惑だなんて、とんでもない。ただ、びっくりしただけです」 「すいません。事前にお知らせしておけばよかったんですけれども。実は、来年からこちらのほうの大学に入ろうかと思いまして、下調べに参ったのです。兄のところへ行ったのですが、ちょうど兄は急用ができまして不在なものですから、角川さんにこれをということでした」  百合子は手紙を出した。角川はそれを受け取ると、封筒の上に「角川君」と書いた榊の手紙だった。中には、「よんどころない急な用事ができて、二、三日手が放せないことになった。本来なら、僕が百合子を東京見物に案内してやろうと思っていたのだが、残念だ。そこで、君にお願いする。よろしく頼む」という趣旨のことが書かれていた。 (勝手なやつだな)  源義は思った。 「すいません、兄がわがままなことをお願いしたようで」  百合子は言ったが、源義は首を振り、 「いや、そんなことはありません。ちっとも迷惑なんかじゃないですよ」  そう言い、さらに言葉を何か補いたいと思った。本当に不快ではないのだ。むしろ、嬉《うれ》しいのだ、ということを言いたかったのである。だが、源義は結局、それを口にする勇気がなかった。なんとなく照れくさい。 「それじゃあ、百合子さんは」  と、源義は事務的な話に話題を変えた。 「どちらに行きたいですか? 宮城《きゆうじよう》ですか、それとも靖国《やすくに》神社? それとも明治神宮かな?」  そう言うと、百合子は笑い出した。 「何か、お爺《じい》さん、お婆さんみたいですのね」 「そう言えば、百合子さんはどこにお泊まりなんです?」 「麻布区にある叔母《おば》の家にいます。龍土《りゆうど》町というところです」 「へぇ、そんなところに親戚《しんせき》がおありなんですか。ちっとも知らなかったな。そこの方は?」 「叔父《おじ》は貿易業をやっておりますし、叔母は私にとって義理の叔母ですけれども、主婦ですから、あまり引っ張り出すわけにもいかないのです」  そのほうが好都合だと、源義は思った。何しろ、百合子と二人きりで市内見物ができるのだ。 「じゃあ、どうしましょうかね。百合子さんは、何が見たいのですか?」 「私は、せっかく東京という新しい都に来たのですから、新しい建物や新しい公園を見たいと思います」 「なるほど、京都の人はそういうふうに考えるんですね」 「あら、何か変かしら?」 「いや、そんなことはありません。そうですね、じゃあ、ここからバスでとりあえず丸ノ内の丸ビルに行きましょうか。最新鋭のビルですよ」 「ああ、丸ビル。名前だけは聞いたことがあります」 「東京駅で下りられたのなら、見ているはずですがね。すぐ近くなんですよ」 「そうですか。気づかなかったわ」 「じゃあ、これから行きましょう」  そこへ、下宿のおばさんがお茶をお盆に載せて現れた。 「あら、もう出掛けるのかい?」 「ええ、ちょっと出てきます」 「せっかく、お茶|淹《い》れたんだけど」 「じゃあ、それはいただこうかな」  源義は百合子にも勧め、自分は立ったままお茶を飲んだ。 「あらあら、行儀の悪い。早く外に行きたいっていうわけ?」  下宿のおばさんは意味ありげに笑った。 「いや、そんなんじゃありませんよ」  源義は頭を掻《か》いた。  階段を下りると、下の玄関のところにある鏡を見て、源義は顔をしかめた。不精髭《ぶしようひげ》が伸びている、冴《さ》えない姿である。これでは百年たっても、女にもてるような顔ではない。 「髭を剃《そ》ってくればよかったな」  源義がつぶやくと、後から下りてきた百合子が、 「あら、いいじゃありません。男の人は顔じゃありませんもの」 「そうですか」  源義は何となく複雑な気分だった。  二人は恵比寿《えびす》駅前からバスに乗ると、材木町から六本木、虎ノ門、霞ヶ関を経て、内幸《うちさいわい》町で下りた。ここからバスを乗り換えるのもいいが、歩いて十分ほどで丸ビルに着く。天気はやや曇りがちだったが、雨はまだ降っていなかった。 「このあたりも一昨年《おととし》ぐらいまでは、もっと華やかだったんですがね」  源義は言った。  確かにこのところ、不景気というか、何というか、物資が少なくなっている。丸ビルに入っても、ついこの間までショーウィンドーに飾られていた豪華な洋服が影をひそめ、代わりにスフで作った国民服が飾ってあるだけである。大陸での戦争が長引いているせいかもしれなかったが、とにかく物が少しずつなくなっている感じは実感としてあった。  百合子はエレベーターの多さに、まず驚いた。 「立派なビルですね」 「ええ。実は、僕は毎週ここに来ているんです」  源義は自慢げに言った。 「それは何のためですの?」 「この八階で、柳田国男先生が民俗学講座を開いているんです。それを聴講しているんですよ。特に、僕は目を掛けられているんです」 「それは良かったですね。角川さんは、将来有望なのね」 「いやあ、それほどでも」  源義は丸ビル内をひととおり案内すると、外へ出て、再び日比谷公園のほうに戻った。ここは自然を生かした土の部分が多い公園である。百合子はそれも喜んだ。 「ちょっと休んでいきましょうか」  源義はそう言って、ベンチを勧めた。源義と百合子は、同じベンチに腰を掛けた。  源義は、先ほどから心臓がどきどきしていた。百合子への自分の思いを、もっと直截《ちよくせつ》に伝えるにはどうしたらいいだろう。百合子はそんなこと一向に頓着《とんちやく》せず、 「角川さんは、最近、どんなご研究をなさっていますの?」  と聞いてきた。 「ええ、僕の専門は中世の語り物、例えば『義経記《ぎけいき》』とかそういったものなんですが、最近はちょっと縁があって、源氏物語を調べています」 「まあ、源氏物語?」 「お読みになったことはありますか?」  源義は尋ねた。 「ええ。一度は読んだことがあります。須磨《すま》で何度もつまずきましたけど」  と、百合子は笑った。昔から、源氏を通読しようとする者は、須磨・明石《あかし》の巻あたりでつまずいてしまう、というのは有名な話である。 「長過ぎますからね」  源義は言った。 「別に、百合子さんが悪いんじゃないんですよ。あれはね、どうしてそんなに長いのかというのが、実は研究テーマなんです」 「それはどういう?」  不思議な顔をして、百合子は源義を見た。 「源氏物語多作者論です」 「たさくしゃろん?」 「多作者論。つまり、多くの作者がいるということです。紫式部だけじゃなく」 「それは初耳ですわ」 「ええ、通説ではありませんからね。だけど、これはかなり有望な説で、僕は明日の通説になるんじゃないかと思っています」 「どうしてですか?」 「うーん、それはいろんな根拠があるんですけれども、僕は昨日、源氏物語をもう一度、いや、正確には二度通読してみたんです。そしたら、今まで気づかなかったことに、いくつか気がついたんです。——こんな話、興味ありますか?」 「ええ、とっても」  百合子は、むしろ身を乗り出すようにした。それが単なる調子合わせではなく、本当に興味を抱いていることがよくわかった。 「まず、一番大きいのはね、あれは一人の人物が書いたにしては、登場人物が多過ぎるんです」  源義は腕組みして、 「源氏物語、いったい何人の人が出てくると思います?」 「さあ、数えてみたことありませんから」 「僕は数えてみたんですよ。いいですか、五百人以上なんです」 「五百人」 「それもですね。例えば有名な人物、紀貫之とか宇多天皇とか、そういった人間は省いているんですよ。それから、もちろん無名の人間で女房がたくさんいたとか、十人いたとか二十人いたとか、そういうのは省いてあるんです。小説としての源氏物語の中に登場する、いわゆる登場人物だけで五百人を超えるんです。僕は西洋の長編小説も少しは読んだけど、源氏物語と同じくらいの長さの小説で、五百人も出てくる小説なんてありません。せいぜい百人がいいとこでしょう。どんなに多くても、二百人は超えないと思います。ところが、源氏物語は五百人。  しかも、問題なのは、その中で三百人以上、全体の六割に当たる人間は、その巻だけしか出てこないんです。いわば、本当の意味での使い捨てなんですよ」  百合子は、その使い捨てという表現がおもしろかったのか、笑った。 「でも、よくお数えになりましたのね」 「いや、実はそれで昨日は徹夜してしまったんですよ。やりだしたら、やめられなくなってね。ノートをとったんですけれども、だんだん数えているうちに、呆《あき》れましたよ。  ものすごく多いし、問題は普通、小説を書く人間というのはね。いや、僕は実作するわけではないんですけども、やはり心理として一度使った重要な人物というのは、後のほうでも使いたくなるはずなんですよ。いわゆる伏線というやつですね。ところが、例えば第一巻の桐壺には、幼い光源氏の後見人である右大弁《うだいべん》という貴族が出てくる。右大弁というのは官名であって、個人名は出てないのですがね。とにかく、この右大弁という貴族が光源氏の後見人となったのに、その後は一度も出てこないんです。死んだとも書いてない。あるいはもう一人、第一巻で名前をあげるなら、靫負《ゆげい》の命婦《みようぶ》という女官も、これは桐壺帝の侍女で結構印象の強い役なんですが、出てこない」 「あっ、その靫負の命婦のことなら覚えています。何か悲しい役でしたよね」 「そうです。いちいち指摘しきれないぐらいあるんですよ。そういう例が。  とにかく——」  そこまで言った時だった。突然、大粒の雨が落ちてきた。 「いけない!」  慌てて、源義は百合子の手を引っ張って、公園内の東屋《あずまや》に避難した。まったく突然の雨だった。 「困ったな。これじゃあ、服が濡《ぬ》れてしまう」  二人とも、あいにく傘は持っていなかった。 「そうだ、いいことがある。東京駅にはタクシー乗場がありますから、そこから僕が車をここまで呼んできます。ちょっと待っててください」 「でも、それじゃあ、あなたが濡れてしまいません?」 「いや、構わないですよ。ちょっと待っててください。すぐ戻りますから」  源義はそう言って、雨の中に飛び出した。  日比谷公園の入口を抜け、東京駅までは走って行っても十分かかる。源義は念のため、財布の中身を確かめた。三円あった。タクシーの初乗り料金は七十銭だから、これで何とかなるだろう。ふと気がつくと、目の前に帝国ホテルがあった。 (そうだ、あそこにいるかもしれない)  源義は雨の中を道路を渡っていくと、幸いにも客待ちのタクシーが二台ほど止まっていた。源義はドアを叩《たた》いて乗せてもらい、首尾よく百合子を拾った。 「恵比寿まで」  と、源義は運転手に言った。 「これでは、東京見物どころではないですね。着物、濡れませんでしたか?」 「ええ、少しだけ」  源義はほっとした。 「でも、タクシーに乗るなんて、申し訳ありません」 「いえ、いいんですよ。ずぶ濡れになったら、どうしようもない。それじゃあ、お兄さんにも申し訳が立たないし」  車は二十分ほどで、源義の下宿に着いた。  下宿のおばさんは、 「まあまあ、タクシーでご帰館かい」  と、驚いていた。  源義は百合子に下で少し待ってもらい、急いで服を着替えた。 「さあ、どうぞ。むさ苦しいところですが」  源義は再び、下宿で百合子と向かい合って座った。 「とんでもないことになっちゃいましたね。せっかくの東京見物がパーだ。普段《ふだん》の心掛けが悪いのかな」 「そんなことないですわ」  百合子は笑った。 「それにしても百合子さん、全然京都|訛《なま》りが出ませんね」 「ああ」  百合子は笑って、 「東京へ来るために、少し直しているんです。気になりませんでしょう?」 「直すことないのに」  源義は言った。 「ここは確かに都だが、八十年くらい前までは、そちらのほうが都だったんだから」 「それはそうですけど。でもねぇ」  百合子はそう言って、源義の机の上にある源氏物語とノートに目をとめた。 「さっきおっしゃっていたの、これですわね」 「そうです」  源義はノートをとった。頁をめくってみせると、中に整然とした文字がいくつも書き連ねてあった。 「さっきのお話の続きを伺いたいわ」 「えっ、源氏物語多作者論ですか」 「ええ、とっても興味がありますの」 「そうですか。じゃあ、お話ししましょう」  源義は居住まいを正して、 「あれが小説であり、一人の作者によって作られたものだとするとね、どうしてもおかしなところがあるんです。それは、先ほど言った登場人物の過剰もそうなんですけれども、例えば光る君という主人公の名前もそうなんです。百合子さん、源氏物語五十四帖の中で、光る君という言葉が何回ぐらい出てくると思いますか?」 「さあ……」  百合子は少し考えていたが、 「源氏が活躍するのは、宇治十帖を引いた残りの四十四帖ですわね。その四十四帖の中で一回ずつ出てきたとしても、四十四回。何度も出てくるでしょうから、少なくとも百回以上かしら」  源義は笑みを浮かべて、首を振った。 「そうじゃないんです。実は、第一巻桐壺以降、光る君という名が出るのは、ただの三回だけなんです」 「えっ、三回ですって!」  百合子は驚いた。 「三巻じゃなくて、三回ですよ。具体的に言えば、光る君が生きている間では、あと須磨の巻で一回使われるだけなんです。そして、それ以降は宇治十帖の中の匂宮《におうのみや》と手習《てならい》の二巻で、それぞれ過去にこういう人がいたということで、一回ずつ出てくるだけなんです」  百合子は、まだ信じられない顔をしていた。何と言っても、光る君というのは源氏物語の主人公の呼び名なのである。それが、あれだけの膨大な小説の中で、桐壺以後、たった三回しか出てこないということがありうるのだろうか。 「信じてませんね、百合子さん。じゃあ、見てご覧なさい。例えば、第二巻帚木の頭では、彼のことを何と言っているか」  岩波文庫を受け取った百合子は、その帚木の頁をめくった。帚木の冒頭には「光源氏」とあった。 「ああ、光源氏。こう言っているんですね」 「そうです。ただ、光源氏というのはそこにも書いてあるように、事々《ことごと》しい名前ですよね。何となく他人行儀な、いかにも親しみのない名前じゃないですか。それに比べて光る君というのはすばらしい名前だし、現に桐壺の巻にも『光る君という名は、高麗人《こまうど》の愛《め》で聞こえてつけたてまつりける』と書かれています。つまり、これは作者が高麗人の名を借りて、非常に愛着を持ってつけた名前であるはずなんですよ。それなのに、どうして後になって出てこないのでしょうか」 「それでは角川さんは、この光る君という名が出てこない巻は、すべて別の作者だとおっしゃるんですか」 「いえ、そこまでは言いません。ただ、昔は格式張った言い方をして、例えば人の名前も右大臣とか左大臣とか官職名だけで呼んで、実際の名前を呼ばないということはよくありましたからね。それに、名前を呼ぶにしても、その称号のような名前で呼ぶ。まさに紫式部というのもそういう名前ですけれども、あれは本名ではなくて、紫の物語を書いた人で、そして父親が式部の官名を持っていたので、紫式部と呼ばれたんですよね。本名は何といったのかわかりません。それと同じで、特に高貴な身分の人は名前を呼ぶことはあまりないものだから、光る君という言い方が現代の小説ほど使われなかったことは事実です。でも、これはあまりにも極端すぎる。帚木《ははきぎ》系の作者は、光る君という名称を嫌っていたとしか思えません」 「帚木系とおっしゃいますのは?」  百合子に言われて、源義は初めて自分がそんな言葉を使ったのに気がついた。 「いや、今のは偶然口をついて出ただけです。特に根拠があるわけではないです。ただ、源氏物語というのは、いくつかの系統に分けられるのではないかと思うんですね」 「作者ごとの、ということですか」 「そうなんです。これも気がついたことなのですが、冒頭の桐壺において、光源氏は不思議な予言を受けます」 「それは、どういう予言でしたっけ?」 「お忘れですか。『この君は国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の』という件《くだり》です。ここですよ」  と、源義は岩波文庫の源氏物語のその部分を開いてみせた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   相人「國《くに》の親《おや》となりて、帝王の、上《かみ》なき位《くらゐ》にのぼるべき相《さう》おはします人の、そなたにて見《み》れば、亂《みだ》れ憂《うれ》ふることやあらん。朝廷《おほやけ》のかためとなりて、天《あま》の下|助《たす》くる方にて見《み》れば、又、その相たがふべし」 [#ここで字下げ終わり] 「つまりこれは、まず国の親となられ、帝王として最上の位を極めるべき御方だと言っているのですから、天皇の父になるということですよね。しかし、同時にあくまで天下の政治を補佐する、つまり臣下としての立場の相も備えているということですよね。これは変ですよね。つまり、帝王になるならば臣下ではない。しかし、臣下としての地位の相も備えている。これはいったい、どう解決するのか」  源義は再び源氏物語を繰った。ずっと後の藤裏葉《ふじのうらば》という巻を出した。 「ここで、実は最初の予言は実現するんです。彼は臣下の身でありながら、その不義の子、つまり父親の桐壺帝の妻である藤壺女御と密通してできた子どもが即位しますね。冷泉《れいぜい》帝です。冷泉帝はまごうかたなき光源氏の息子だから、彼は帝王の父となったということです。しかも、そのことが後に冷泉帝に知られ、彼は准太上天皇《じゆんだいじようてんのう》という重い地位を与えられます。  太上天皇というのは上皇ということですね。すなわち皇族扱いです。准太上天皇というのは確かに皇族扱いだが、それはあくまで准がついている以上、臣下からなった、つまり名誉上皇という形でもある。したがって、最初の予言、つまり国の王の親となり、なおかつ国の柱石としても、つまり臣下としても重い地位を占めるという矛盾した予言をぴったり成就させた形になっている」 「そう言われて見れば、そうですわね」  百合子は驚きの表情を見せた。 「つまり、これは源氏物語が一人の作者によって構想されたものではなく、原・源氏物語とも言うべき短いものがあって、それにいろんな人がいろんなお話を加えていった。その過程で、矛盾したこともできてきたということをあらわしているんじゃないかと思うんです。  これまで、和辻哲郎先生や歌人の与謝野晶子や少数の人々はこの矛盾に気がつきました。しかし、未だに国文学者はこのことに気がついていない。これは重大な問題だと思うんです。本当に残念なことをしましたよ。もし、あの貴宮家の源氏物語が手に入れば、そのことを立証できたのかもしれないのに」  それを聞くと、百合子は妙な顔をした。 「そのことは聞いてませんか?」 「ええ。兄からは何も」 「変なやつだな。僕はこの間、あなたの家に泊まって、それでその足で奈良の山奥へ出掛けたことがあったでしょう」 「ええ。あの時のことですか」 「ええ。山奥でね、貴宮家という旧家があるんです。南朝の後裔《こうえい》とも思える。そこに、昔どおりの源氏物語があるという触れ込みだったのですがね。残念ながら、手に入れることはできませんでしたよ」  と、源義はその経緯《いきさつ》を話した。百合子は興味深げに聞いていたが、 「じゃあ、二度目の時は、角川さん、ご一緒じゃなかったんですね」 「えっ、二度目?」  源義は不思議な顔をした。  すると、百合子も不審な表情をして、 「兄はあの後、もう一度、その貴宮家に行ったようです。ご存じなかったんですか?」 「いいや。それは知りませんでした」  源義は不思議に思った。なぜ、源義にも黙って、榊はあんな山奥にもう一度出掛けていったのだろう。貴宮家は、何も見せるものはないと言っていたのに。 (今度、榊に会ったら、そのことを確かめてやる)  源義は密かにそう決意した。      四  榊はその頃、あの三之公村にいた。  正確に言えば村を見下ろす山の上である。山といっても、なだらかな斜面が人家のあるあたりにまでつながり、一面にススキが生えている。 (平和だな)  と、榊は思った。  この山里にいると、下界の喧噪《けんそう》がまるで嘘のように感じられる。それどころか、歴史の流れが止まってしまったようにすら、感じられるのである。 「何を考えてらっしゃるの?」  多鶴子が言った。多鶴子は草の上に横座りに座って仰向けに寝ている榊に膝《ひざ》を貸している。 「——君のことさ」  榊は下から多鶴子の顔を見上げて言った。 「嘘ばっかり」  多鶴子は笑った。 「本当だよ」  榊は膝枕から起き上がって、多鶴子の手を取った。 「本当にいいのかい?」 「え、何が?」 「決まってるじゃないか、あのことだよ」  榊は言った。 「私の心を疑ってるの?」  多鶴子が眉をひそめた。 「とんでもない。——ただ、やはり、大変なことだからね」 「この村を捨て、二人で遠いところへ行くってことが?」  多鶴子の言葉に、榊はあわててあたりを見回した。 「ここには誰も来ないわ」 「お姫《ひい》様の命令?」  からかうように榊は言った。 「そんな言い方をするのはやめて。あなたは神様の前では誰もが平等だと教えてくれたじゃないの」 「そうだ」  榊はうなずいた。  そして、多鶴子の肩を引き寄せ、くちづけしようとした。 「待って、誰か来たら——」 「誰も来ないと、この口で言ったよ」  榊は多鶴子の唇に、自分の唇を重ねた。  長いくちづけが終わったあと、榊は思わず笑みを漏らした。 「なぜ笑うの?」  不審な顔で多鶴子が聞いた。 「——ごめん、角川のことを思い出したんだ」 「角川さん?」 「そう、あいつが二人がこんなことをしているのを見たら、何て思うかと思って——」 「悪い人ね。角川さんは真面目で誠実な人じゃない」 「そう、でも、君は悪い男の方が好きなんだろう」 「うぬぼれ屋ね」多鶴子は呆れて言った。  でも、榊の言う通りだった。  多鶴子は長い間待っていた。この地獄のような古い村から、誰かが自分を連れ出してくれるのを。折口教授に手紙を書いたのも、そのきっかけになればいいと思ったからに他ならない。東京にいる人々に、この山里に関心を抱かせるのには、あの本はまさに絶好のものだった。  そして、榊が現われた。 (私はこの人についてゆく。悔いはない)  多鶴子の決心は変わらない。 (角川、許せ。多鶴子さんは僕がもらう)  榊は心の中で、親友に詫びた。      五  翌日、源義は講義を終えた後の折口教授の研究室に行った。昨日の結果を報告するためである。  源義が勢い込んで報告すると、折口は興味深げに源義のノートを見ていたが、説明を聞き終わると、大きくうなずいた。 「なるほどな。確かに君の言うとおりかもしれない」  折口は言った。 「実は、僕も君が言ったようなことを考えてみたことがあるんだよ。和辻論文の出た、すぐ後でね」 「そうだったんですか」  源義は気が抜けたように思った。 (それならそうと、早く言ってくれればいいのに)  師の折口は、どこか秘密主義なところがある。いや、正確に言えば秘密主義というのとは違うかもしれない。要するに、弟子を後であっと言わせようという稚気《ちき》のあるいたずら心である。源義も、それに何度か悩まされたことがあった。もっとも、悩むというほど大仰《おおぎよう》なものでもないが。 「それで、先生はどういう根拠から、源氏物語を複数の作として見るのですか」 「うん、それは君の言った登場人物の数の多さ、あるいは登場人物の不連続性。君に言わせれば使い捨てということだが、そればかりじゃないんだ。源氏物語というのは、あまりにも光と影の部分が多過ぎるんでね」 「光と影?」  源義は思わず師の言葉に口をはさんだ。  折口はうなずいて、 「そうだ。よく考えてみたまえ。君の察知したとおり、源氏物語というのは本来は低い身分の母親から生まれた光源氏が、異例の出世を遂げて、ついに准太上天皇という地位まで昇り詰める物語だ。それは実に輝かしい、ちょうど桃太郎や一寸法師によくあるような出世物語なのだよ。ところが、その後半生はどうだ? 彼は冷泉帝の父となり、准太上天皇として尊敬を受ける身になるが、その因果応報というか、罪の報いというか、彼の新しく来た若き妻は柏木と不義を行い、薫を産んでしまう。つまり、彼が父にしてのけたことが、そっくり息子に返されることになっているわけだ。これは、源氏物語の話に陰影を加えている。つまりこれがあったからこそ、単なる単純なおとぎ話ではなく、文芸作品になりえたという考え方もある。しかし、あの作品は十一世紀だ。いいかい、十一世紀だよ」  折口は眼鏡の弦《つる》をずり上げると、 「十一世紀には、世界中どこでも、あんな複雑な構造の話はないんだ。もちろん、オデュッセイアやイリアッドのように語り物ならある。だが、それは叙事詩だ。小説ではない。小説の形で、しかも日本というのは、今でこそ一等国かもしれんが、あの当時は支那《しな》の周辺の一民族国家に過ぎん。学問も技芸も、すべて海の向こうからやってきた国だ。そういう文明度の低い国で、いきなり世界中のあらゆる文明国よりも早く、あんな陰影に富んだ小説ができるものだろうか」 「すると先生は、もともと単純な成功|譚《たん》としての源氏物語があり、そこに後世の人間がいろいろと加えていったということですね。例えば、仏教的解釈で」 「まさにそれだよ。後半部は、特にその趣が強い。源氏は自分が犯した罪を、そっくりそのままお返しされたわけだからな。そして、世をはかなんで出家してしまう。いや、出家を決意するところで、第一部は終わるじゃないか」 「なるほど。そう言われてみれば、そうですね」  昨日、徹夜で源氏物語を読み、その構成を再検討した源義には、非常によく頭に入る結論であった。 「もう一つ、おもしろいことがある」  と、折口は立ち上がって、書架から源氏物語をとってくると、 「巻十四|澪標《みおつくし》の巻だよ。この巻で、光源氏の不義の子である冷泉帝は即位する。しかし、その時の源氏にはまったく罪の意識がない。例えば、ここをごらん。『当代の、かく、位にかなひ給《たま》ひぬることを、「思ひのごと、嬉し」と、おぼす』とあるだけじゃないか。これは、まさに単純明快。暗い厭世《えんせい》観はどこにもないよ。  ところが、これが下って巻三十五若菜下になるとだな」  と、折口は頁を繰って、 「冷泉帝のことを、『内裏《うち》の帝を御位《みくらゐ》につかせ給ひて十八年にならせ給ひぬ』と書いてある。そして、この冷泉帝には子どもがまったく生まれていない。そして、『かの帝は日頃、いと、重く悩ませ給ふ事ありて、にはかに、おりゐさせ給ひぬ』と退位する。この『日頃、いと、重く悩ませ給ふ事ありて』というのは何だ? それは、自分が先帝の子ではなくて、源氏の不義の子だという罪の意識だろう。  そして、源氏も、この中では『罪は隠れて、末の世までは、えつた(伝)ふまじかりける御|宿世《すくせ》、口惜しく、さうざうしく思せど、人にのたまひ合はせぬ事なれば、いぶせくなむ』と書いてある。つまり、これは自分の罪があるが故に、冷泉帝の治世は長く続かないのだ、いや伝えることができないのだ。そのことを残念に悔しく思うが、人には言えないということだろう?」 「ええ」 「つまり、これは仏教的な罪の意識がはっきり書いてある」 「先生、異を唱えるわけではないですが、源氏の子どもを産んだ藤壺も、確か桐壺帝に対する罪の意識で出家してはいませんでしたか。それもずっと前の巻で」 「つまり、それは仏教による罪の意識であり、それがすでに早く現れているというのかね?」 「ええ、そうです」 「じゃあ、その君の言うのは、この巻十の賢木《さかき》のことだろう。賢木のところをよく読んでごらん」  と、折口は今度は賢木を開いた。 「そもそも藤壺が出家したのは、桐壺帝に対して申し訳ないと思うことよりもだな、光源氏がこれ以上通ってくるのを止めさせる目的だったんじゃないかな」 「————」 「つまり、これ以上、光源氏が通ってくれば、不義の罪は発覚する。そうすると、その時点で皇太子になっている冷泉も、その地位を取り消されてしまう。だからこそ、その冷泉の地位を確保するために出家するというふうに考えたほうが、妥当じゃないかな。私には、そう思えるんだが。それにそもそも藤壺と源氏の密通は若紫では以前からのこととして書かれてあるのに、前の巻にそんな話はまったく出てこない。これも実におかしなことだ」  源義は舌を巻いた。折口は何もしていないと言いながら、源氏物語については実に詳しく研究しているではないか。 「それに、仮に源氏物語全体があくまで仏教思想による贖罪《しよくざい》感を題材にしていると考えるならば、また矛盾するところがあるんだよ」 「それはどこですか」 「それは巻四十四だ」  と、折口はもう一冊の源氏物語をとってきた。折口の持っている源氏物語は、上下の二巻本で、その中に五十四帖が収められている。  折口は巻四十四|竹河《たけかわ》を開いた。  竹河は、源氏亡き後、薫大将と匂宮を主人公に宇治で展開される物語、すなわち宇治十帖の最初の巻である。その宇治十帖の頭の巻に、冷泉帝が再び登場する。 「ここで、冷泉帝は玉鬘《たまかずら》と髭黒《ひげくろの》大将の間にできた姫君を後宮に迎え、そこで皇子が生まれている。冷泉帝に皇子が生まれるんだ。もし、因果応報ということを絶対の基本テーマにするならば、冷泉帝には男子は生まれてはならないのだ。ところが、竹河ではあっさり生まれている。これはどういうことだ?」 「もちろん、竹河の作者と、若菜の作者は違うということですね」 「そうだ。それ以外に考えられるか? 個人の気まぐれにしては、あまりにも統一性を欠くじゃないか」 「折口先生」  源義は、感極まって言った。 「何だね」 「失礼な言い方かもしれませんが」 「構わんよ、言ってごらん」 「僕は、先生がここまで源氏物語を考究なさっているとは知りませんでした。先生は、原・源氏物語があるというお考えなんですね」 「基本的にはそうだ。もし、源氏物語のプロトタイプというものがあるとすれば、おそらく今の量の三分の一程度になるのではないかな。これは、もっと実証的な研究が必要だろうがね」 「先生」  思い詰めたように、源義は言った。 「何だい、改まって」 「お願いがあります。実は、もう一度、あの三之公村に行ってみたいのです」 「三之公村か」  折口は、椅子《いす》にゆったりと背をもたせ掛け、しばらく考えていた。 「あの貴宮多鶴子なる女性に、もう一度頼み込んでみようということかね」 「ええ、そうです。僕は先生のお話を聞いて、ますます源氏物語多作者論に対する考えが固まりました。もし、そういうものが実在するならば、ぜひとも世に出したいと思います」 「だが、君ははっきりと断られたのだろう?」 「それはそうですが、脈はありそうな感じもしました。彼女はもともと外へ出す気だったのです。だから、例えば今後公開することについて確約をとるとか、あるいはそれはとれないまでも、内容がどういうものなのか、その本はどういう体裁をしているのか、いつ頃から伝わっているものなのかというようなことを聞くことはできないわけではないと思うんです」 「わかった。実は来月、大和《やまと》方面に万葉旅行に行こうという計画がある。その時、君も一緒に来たまえ。その途中に寄ってみるのもいいだろう。吉野も予定に入っているから」 「わかりました。ありがとうございます」  源義は頭を下げて、礼を述べた。      六  アメリカ合衆国のグルー駐日大使は、この頃、顕著になってきた郵便物の遅れに頭を痛めていた。本国からの通信が、極めて遅れるようになってきたのである。船便は仕方がないにしても、航空便までこうも遅れるようでは、郵便の役を果たしていないとすら言えそうだった。  グルーは、書記官のスコットを呼んで文句をつけた。 「この頃の郵便の遅れはひどすぎる。日本政府に公式に申し入れてくれ。これでは、日米の外交にも支障を来《きた》すとな」 「わかりました」  スコットはそう言ったが、すぐにその場を去らなかった。 「どうした?」  グルーが尋ねると、スコットはまるでエメラルドのようなグリーン色の目をひそめて、 「大使、戦争にはならないでしょうね」  心配そうに言った。 「そうならないようにするのが、われわれの責務だ」  グルーは言った。  この頃、日米関係は悪化していた。日本が中国に日清戦争以来築き上げた数々の利権、特に満州国の建設は、かつて中国の門戸開放を唱えたアメリカを強く刺激した。アメリカにとっても中国は魅力的な市場であるのに、日本はそれを独占しようとしていると見ていたのである。しかも、日本政府は、そして軍部はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ道を選んだ。これは、明らかにアメリカに敵対するものである。そのこともあって、このところの日米関係は悪化の一途をたどっていたのである。 「まあ、心配するな」  スコットが青い顔をしているので、グルーは慰めるように、 「いくらこの国でも、わが国と戦争を始めるような愚かな真似はせんだろう。何せ、今、日本陸軍は中国に全力を傾注している。仏印(仏領インドシナ)にも色目を使っている。そういう状況で、太平洋で作戦を始めたらどうなる。この国の軍がいくら強いからと言って、二方面作戦はとれんぞ」 「そうですね」  スコットはほっとしたように言った。 「あとは、わが国があまり日本を刺激しないことだ。どうも黒船以来、わが外交部は日本と言えば強硬な措置をとれば言うことを聞くと思っている。そのへんは甚だ危険だがな」  グルーはそうは言ったが、やはり日米開戦まで到るとは夢にも思っていない。もし、日本とアメリカの間が決定的に悪くなるようなことがあっても、日本は南方の石油地帯を確保し、持久戦の態勢をとる形でアメリカの強行態度を無視する方法をとるだろう。それが外交というものだ。自分も日本の指導者なら、その道を選ぶ。ということは、まだまだ決定的な破局には到らないということだ。 「ひょっとしたら、この国の女でもできたか?」  スコットがあまり日米間のことを心配するので、グルーは半分冗談のつもりで言った。だが、その時に明らかにスコットの顔色は変わった。 「そうか。恋愛は自由だが、もし、きちんとした形をとるなら、ちゃんと報告してくれたまえ」 「はい、わかりました」  スコットは部屋を出ていった。  グルーは立ち上がると、部屋のカーテンの紐《ひも》を引っ張り、外の光を入れた。このあたりは屋敷町である。しかし、繁華街へ通じる道なので、人通りもわりとある。グルーは下の道路を行き交う人々を眺めながら、ふと疑問に思った。 (この国の人々は、今、日米が抜き差しならぬ状態にあるっていうことを知らされているのだろうか)  新聞を読む限りでは、そうではなかった。アメリカなんぞやっつけてしまえ、という威勢のいい評論とも激励ともつかぬものが載ることはあるが、日米間の現状を冷静に、且《か》つ客観的に分析し、それを民族の将来の指針にしようとしたような記事は、この国の新聞には皆無であった。むしろ、そういうことならイギリスのロンドンで発行されている『タイムス』のほうが、よりよくこの国の将来と問題点を指摘している。 (日本の為政者に『タイムス』を読めと言っても、無理なことかもしれんが)  グルーは苦笑した。  対米強硬派ほど、外国の新聞を読まない人間が多い。むしろ、新聞を読んでいるだけで、親英米派と見なされる風潮もあるらしい。確かに、グルーと個人的な親交のある日本人は、数年前に比べて減っていた。残念なことだが、それが日本の現実かもしれない。  ドアがノックされた。グルーがそちらを向くと、執事が入ってきて、 「パウエル神父がお見えです」  と、言った。 「ここへ通してくれ」  グルーは言った。執事はちょっと意外な顔をして、 「かしこまりました」  と、頭を下げた。  普通、客は応接間で会うのに、パウエル神父に限っては、いつも書斎が会見の場となる。  神父は入ってきた。 「ごきげんよう、神父。お元気ですか」  と、グルーはデスクの脇《わき》にあるソファを勧めた。パウエルとグルーは向かい合わせに座った。 「神父、あまりここには来ない約束ですぞ」  グルーは、卓上にある葉巻入れから一本取り出すと、卓上ライターで火をつけながら言った。 「わかっています。だが、例の情報について、どうしても確認しておきたくて参りました」 「例の情報というと?」  グルーは葉巻を燻《くゆ》らしながら尋ねた。 「先週の御前会議の内容ですよ」 「『帝国国策遂行要領の決定』でしたかな」  グルーは葉巻を口から離して答えた。  十月下旬を目処《めど》にして、対米・英・蘭の戦争の準備を完了し、外交によって解決しない場合は同月上旬に対米戦を決意。実際の開戦は、十一月上旬になるという内容である。  グルーは日本の最高意思決定機関である御前会議の内容を、すでに把握していた。それは、決定後、関係各位に極秘として渡される暗号電報、特に外地の基地に向かって発電される暗号電報を、すでにアメリカはすべて解読しているからだ。日本人が機密と思っていることは、アメリカにとっては公然の秘密でしかないのである。 「それじゃあ、戦争じゃないですか。決まりですね」  パウエルは言った。グルーは首を振って、 「いや、私はそうは思っていない」 「なぜです?」 「決まってるじゃないか。こんな戦争を起こしたら、日本は破滅するよ。ただでさえ、中国との泥沼化した戦争が続いているのに、ここで太平洋方面に進出して、アメリカもオランダもイギリスもすべて敵に回したら、いったいどういうことになるんだ。これに中国を含めた四カ国を圧倒する力が、日本軍にあるというのかね。それに、戦争が長引けば、今、日本と中立条約を結んでいるソ連だって黙ってない。どう考えたって、この戦争は始まらないさ」 「大使、申し訳ないが、それは違うと思いますね」 「ほう、どうしてだね」 「私は、この国にもう十年も暮らしています。日本人というものの性格に、触れる機会もあります。確かに、おっしゃったような条件で、イギリス人なら絶対戦争などしないでしょう。しかし、日本人は違います。日本人は必ずやる。むしろ、状況が切羽詰まったところで無茶苦茶なことをやり、その無茶苦茶なことをやることに喜びを見い出すという人間です。ま、はっきり言うと、われわれの理解の埒外《らちがい》にある人間どもですよ」 「神父、私だって十年、この国にいるんだ。日本人とも多く付き合ってきたよ。確かに君の言うようなファナティックな側面が、日本人にないとは言わないが、それはあまりにも日本人を馬鹿にした、一種の人種差別的発言じゃないのかね」 「そんなことはありません。現に、最高の意思決定機関で十一月開戦ということが決定されているじゃありませんか」 「ははあ、日本には最高意思決定機関なるものがあるのかな」  グルーは笑って、 「確かに、機関としての天皇はある。枢密院《すうみついん》もあれば、国会もある。もちろん軍部もある。だが、誰が最終決定をするのか。その決定が誰によって責任をとられるか、これほどわからない国もめずらしいんだ。知ってのとおり、天皇は憲法では免責の立場にいるわけだからね。逆に言えば、天皇の名を借りれば、どんな無責任なことでもできるわけだ」 「だから、危険なのですよ、この民族は。放っておくと、何をしでかすかわからない危うさがあります」 「そうかね。私はそうは思わないが。考えてもみたまえ。今、アメリカの世論はどういう動向にある?」  と、グルーはパウエルの目を見つめた。 「戦争|忌避《きひ》だ。そうだろう? 絶対に戦争をしたくないというのが、アメリカの世論だ。しかも、ルーズヴェルト大統領は、絶対に青年たちを戦場に送らないということを公約にして当選しているんだ。この公約は絶対だよ。彼はその公約を破れば、次の選挙で負け、大統領の地位を失ってしまうんだ。  だから、今、アメリカと利害が対立している国の指導者が、第一に心得なければいけないことは、アメリカに参戦の口実を与えないことだ。つまり、こちらから仕掛けないことだ。現に、ヒトラーはそうしたじゃないか。ヒトラーはUボートを使って大西洋を荒し回ったが、わが国の艦船だけは絶対攻撃しなかった。もし攻撃すれば、アメリカが参戦する絶好の大義名分を与えてしまうことになる。戦争とはそうしたものだ。外交とはそうしたものじゃないかね。だから、私は日本の指導者がそんな馬鹿なことをやるとは、到底思えないのだよ」 「大使、それは日本人に対する買いかぶりですよ。私は、日本人はもっと馬鹿だと思います。確かにおっしゃるような事情が、アメリカ国内にある。だけど、日本の政府指導者はそんなこと知りませんよ。とにかく彼らは、自分たちしか見ていない。自分の足元しか見ていない。それに、この国は本当の意味の民主主義国ではありませんから、公約の重さなんてわかってないんですよ。公約を尊重することが民主主義の基本だということも実感としてないし、アメリカがそういう国だということもわかっていない。だから、私は日本が先に飛びかかってくる可能性もなきにしもあらずと踏んでいます」 「まあ、諜報《ちようほう》機関の長としては、それぐらいの用心深さが必要なのだろうな」  とグルーは言った。  もし、開戦ともなれば、それまで把握されていたスパイ網は、必ず全員検挙される。むしろ開戦のタイミングを狙《ねら》って、それまで泳がせておいたスパイを全部捕まえるというのは、よくある手段である。そうしておけば、その後は国交断絶になるから、新たなスパイ網を築くのは容易ではないからだ。  パウエルは話題を変えた。 「ところで、大使。今日うかがったのは他でもない、ひとつお願い事があったからです。万一、私が捕まった場合に、ある人物がこの大使館に保護を求めてきたら、必ず受け入れて、アメリカに出国させてやってほしいんです」 「おお、それはどんな人物かね?」 「日本人です。ただし、この日本人は強烈な爆弾を持っています」 「爆弾?」  グルーは眉をひそめた。 「本当の爆弾じゃありません。精神の爆弾です。もし、わが国と日本が戦争に陥った場合、彼らの士気を阻喪《そそう》させる巨大な力のある爆弾です」 「思わせぶりなことを言うじゃないか。いったい、それは何だね?」 「詳しく説明する時間がありません。詳細は、これに書いておいたのでご覧ください」  パウエルは報告書を差し出した。 「言うまでもないことですが、『機密』扱いでお願いします」 「で、その日本人というのはどういう男だね?」 「正確に言えば、男女です」 「男女? カップルかね?」 「そうです。男のほうの名前は、榊増夫と言います」  パウエルは、グルーの目を睨《にら》みつけるようにして言った。 「榊増夫。わかった、覚えておこう」 「必ず、お忘れになりませんように」  パウエルはそう念を押して、大使館を出た。  大使館を出て、しばらく歩いて路地を曲がったところで、突然、パウエルは物陰から出現した男に呼び止められた。 「パウエルだな? お前をスパイ容疑で逮捕する」  言い放ったその男は、鋭い目つきをしたがっちりした体の持主だった。特高警察の刑事らしい。 (しまった!)  パウエルは、すぐに踵《きびす》を返して逃げようとした。しかし、後ろにも二人の刑事がいた。パウエルは抵抗したが、押さえつけ、殴りつけられ、最後は柔道の技で投げ飛ばされて、手錠をかけられた。      七  源義は、故郷富山の柳田村にいた。十月の万葉大和旅行にはまだ時間があるので、この際、卒業論文をじっくりした環境で仕上げようと思っていたのである。柳田村というのは、彼の生まれたところから少し山奥に入った、じっくりと物事を成すには最適な静かな村であった。  源義はリュックいっぱいに詰め込んできた資料と首っ引きで、朝から晩まで中世語り物の研究の論文を仕上げようとした。ただ困るのは、時々、あの源氏物語のことが気になってどうしようもなくなることであった。源氏物語を持ってこないでよかったと思った。もし持ってきたら、そちらのほうを読んでしまっているかもしれない。  そういえば、友人の榊のことも気にはなっていた。結局、百合子が京都へ帰った後も、榊には会えなかったのである。よんどころない用事があるとかで、いつ訪ねても不在であった。とうとう、源義は東京で榊に会うことはいったん諦《あきら》めて、一度富山に戻ってきたのである。  柳田村に滞在するのは、この夏、二回目であった。七月にここで籠《こ》もっていた時には、突然、柳田国男が現れて驚いたことがあった。話を聞くと、自分の姓と同じだから、かねて行ってみたいと思っていたのだそうだ。まさに偶然の邂逅《かいこう》であった。 「角川さん、葉書がきたよ」  と、宿のおばさんが持ってきてくれた。源義は、差出人を見て驚いた。それは百合子からだった。百合子の手紙がまわり回って、ここまで転送されてきたらしい。源義は、わくわくしながら裏を引っ繰り返して、文面を読んで驚いた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  「残暑厳しき中、健やかにお過ごしでせうか。ところで、兄増夫のことでござゐますが、二週間ほど前から連絡が途切れ、消息が知れません。何かご存じのことがあれば、取り急ぎお知らせくださいますやうにお願ひ致します」 [#ここで字下げ終わり] (榊が行方不明? いったい、どういうことだろう)  源義は、急いで卒業論文を仕上げて、とりあえず京都まわりで帰ってみようと思った。仕事が終わったのは、三日後である。源義は夜行に乗ると、京都を目指した。京都に着いたのは明け方だったが、何と駅には百合子が迎えに来ていた。 「これは恐縮です」 「お葉書を頂きましたから」  と百合子は言った。  源義は、申し訳ないがすぐにはいけない、しかし三日後の夜行で行くという連絡を百合子の元に送っていたのである。 「まいりましょう。お疲れでしょう」  と、百合子は源義をタクシーに乗せて、伏見の実家に連れていった。榊の母がおろおろしながら出てきた。 「角川さん、すいません、わざわざ来ていただいて」 「いえ、別にたいした手間ではありませんから」  源義は上がって、冷たい麦茶を振る舞われて、一息ついた。そして、まず榊の母と、そして百合子と話し合った。 「僕は、あの三之公村というところにもう一度行ってみたいと思っているんです。ひょっとしたら、そこにいるんじゃないかという予感がするんです」 「でも、それだったら、手紙の一本でも寄越しゃええのに」  と、母が不満そうに言った。 「ええ、そのとおりですが、何となく僕は予感がするんです。行ってみたいと思います」  源義は断固として言った。 「でも、あんな山の中に」  百合子が言うと、源義は首を振って、 「いや、もともと折口先生のご用事で、もう一度行くつもりだったのです。本当は来月でしたけど、この際、そんなことは言ってられません。とりあえず、行ってみたいと思います。これから出発しますよ」 「えっ、もうですか?」 「ええ。でも、あそこは今日中には着けませんから、とりあえず今日は吉野で宿をとって、明日の朝一番で三之公村まで行ってみます。電話もないところだけれども、向こうに着いたら郵便を出しますから」 「それにしても、少し休んでいかれたら? 吉野には、今日の夕方までに着けばいいのでしょう?」 「ええ、それはそうですが」 「夜行列車でお疲れでしょう。昼まで、お休みになりません?」 「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて」  源義は言った。図々しいかとも思ったが、確かに疲れてはいる。あまり体力を使い切ってしまうと、翌日の三之公村入りが不安だ。  源義は昼まで榊家の居間で休ませてもらうと、大きな荷物はそこに置き、軽装で身軽になって出発した。この前と同じように、国鉄と大阪電気鉄道を使って吉野に入り、吉野山の宿坊に泊まり、翌朝、徒歩で三之公村を目指した。この前と違って、雨が降ってきた。 (雨か)  源義は舌打ちした。山の雨は都合が悪い。  夏でもずぶ濡《ぬ》れになることによって体温が奪われ、凍死するケースがあるほどだ。まして、もういかに残暑厳しいといっても九月であり、山の中はすすきの穂が生い茂っている。源義は蓑《みの》と笠《かさ》を近在の農家で譲ってもらい、ひたすら歩いた。蓑は水を弾くわりには風通しもいいという、山歩きするには最高のレインコートである。  源義は記憶をたどって、神社を過ぎ、川の分岐点を通り、山道に入った後、滝の音を聞きながら、ひたすら山道を急いだ。雨を含んだ土が泥となって、滑りやすくなっているのが難儀だった。こんな山では、焚き火もできない。 (冗談じゃなく、気をつけないと遭難するな)  源義は、とにかく進むことにした。今回は三之公村にも通知を出していないというところに、一抹の不安があった。あの人たちは、自分を歓迎してくれるだろうか。だが、まさか山奥まで訪ねて行って、門前払いということはあるまい、とも思った。  今度は、滝で道草をくったりしなかったので、秋の日の落ちるのが早いことを差し引いても、何とか日のあるうちに村へ着くことができた。源義は、真っ直ぐに貴宮家を目指し、門をくぐって玄関のところで案内を乞《こ》うた。 「ごめんください。ごめんください」  何度も叫んだが、返事はなかった。しばらくして、ようやくこの間、顔見知りになった女中が出てきた。女中は源義の顔を一目見ると、返事もせず、慌てて奥へ走っていった。妙な具合だと源義が思っていると、奥から着物を着た老人が出てきて、源義は驚いた。それは、この前、山の中で会い、儀式の時に見た川上惣右衛門だったからだ。 「角川さんとおっしゃいましたな。何用で参られた?」  惣右衛門は不快気であった。 「実は、友人の榊という者が行方不明になっておりまして、あるいはこちらにうかがっているのではないかと」 「そんな者はおらん」  惣右衛門は一喝した。 「そうですか。こちらにうかがってもいませんか」 「わからん男だな。おらんと言ったら、おらんのだ」 「はい、その件はわかりました」  と、源義は一応頭を下げて、 「では、貴宮さんにお目に掛かりたいのですが。私、師の伝言を持ってまいりまして」  それを聞くと、惣右衛門は不快そうに源義をじろりと睨《にら》み、言った。 「お姫《ひい》様もおられぬ。いや、お会いしたくないと仰《おお》せられておる」 「そんな。取り次いでくださいよ」  源義は言った。 「取り次ぐまでもない。お前のような者には会いたくないと仰せられておる。帰れ」  惣右衛門は門のほうを指さした。 「ちょ、ちょっと待ってください」  源義は慌てた。 「もう日が暮れます。僕は今日一日、吉野から歩いてきたんですよ。帰れと言っても、雨も降ってるし、野宿する場所もありません。どうか、軒先《のきさき》なりと貸していただきたいのですが」  源義は懇願した。  惣右衛門はしばらく考えていたが、 「わかった。止むを得まい。ただし、この屋敷に泊まることはまかりならん。わしの家に泊まりなさい」 「あなたの家に?」 「そうだ。今、わしはこのお屋敷を預かっておるから動くことはできんが、代わりにわしの部屋が空いておる。案内させよう——ユキ、ユキはおらぬか」  惣右衛門が叫んだ。そう呼ばれて出てきたのは、先ほどの女中だった。まだ、三十そこそこだろうか。人の良さそうな顔をしている。 「この方に今日の宿として、わしの家を提供する。案内して差し上げなさい」 「はい」  ユキは草履《ぞうり》を履《は》くと、源義の前に立ち、一礼して、 「どうぞ、こちらへ」  と言った。その後、ユキは門を出て、村の外れのほうに向かった。源義は後をついていった。  目抜き通りというほどでもないが、村の中心を走っている道がある。その道を歩いて行くうちに、源義はあちこちの窓から覗《のぞ》かれている自分を感じた。何となく嫌な気分である。 「川上さんの家は遠いんですか?」  源義が聞くと、ユキは頷《うなず》いて、 「もう少し先でございます。足元にお気をつけて」  ユキは傘をさし、菊水の紋の入った提灯《ちようちん》を持っていた。ちょっとの間に日が暮れ、あたりは真っ暗になっていた。  そのうちに村外れにきて、周りは水田に囲まれた一本道になった。源義は思い切って尋ねた。 「ユキさんとおっしゃいましたね。僕の友人の榊増夫のことを、何かご存じありませんか」 「いえ、何も存じません」  ユキはかろうじて答えた。しかし、その答え方の言葉のぎごちなさから、源義は何か知っていると直感した。 「教えてくれませんか」  と言うと、ユキは源義のほうを振り返り、そっと人さし指を口の前に立ててみせた。 (何だ、この合図は。黙っていろということか。それとも……)  源義はあたりを見回した。人の気配は感じられない。しかし、その気でよく見ると、水田の中にある一本松の根方に、子どもらしいものが潜んでいるのが見えた。 (監視している)  源義は、そのことに気がついた。これでは何も聞けない。仕方がないので、源義はそのまま黙ってユキの後に続いた。  ユキは、田んぼの真ん中にある一軒家に源義を案内し、宿の老女に当主の紹介であることを告げた。 「では、お入りください」  惣右衛門の妻女だろうか、老婆は言った。源義が、ユキに礼を言って中に入ろうとした時、ユキはうつむきながら、ようやく聞き取れるぐらいのか細い声で言った。 「明日の夜明けに、先ほどの一本松でお待ちしております」  源義は何も聞かないふりをして、そのまま中に入った。中に入ると、囲炉裏の客の座に座らされ、雑炊など、さまざまな食べ物を振る舞ってもらったが、その間、老婆はほとんど口をきかなかった。  夜明け近くになって、布団の中で一睡もしないでいた源義は、こっそりと川上家を抜け出し、一本松まで行った。すでにユキが待っていた。 「いや、どうも」  源義は我ながら間が抜けているとは思いながら、そういう挨拶《あいさつ》をした。ユキは律儀に頭を下げると、 「申し訳ございません。ぜひとも、お知らせしたいことがあったものですから」  と言った。 「いったい何です?」  源義は言った。 「実は、榊様とお嬢様は駆け落ちをなさったのでございます」 「何ですって?」  源義は驚いて言った。 「それは、いつのことです?」 「今月の十日頃でございましたでしょうか。榊様はいつの間にか、この村の近くまでいらしていたらしく、その朝、突然お嬢様がいなくなり、書き置きの手紙がしてあったのでございます」 「なるほど、そうか。それで、この村の人は口を噤《つぐ》んでいるわけか」 「そればかりではなくて、もうひとつ、大変なことが持ち上がっているのでございます」  ユキは言った。 「実は、お嬢様は駆け落ちの際に、貴宮家の開かずの蔵から宝物を持ち出したのでございます」 「宝物? それは何ですか? 金ですか? それとも——」 「いえ、そのようなものではございません。宝物と申しましても、いわゆる金銀・瑠璃《るり》の類ではございませんで、貴宮家の由緒を語るかみのたから[#「かみのたから」に傍点]と源氏物語なのでございます」 「かみのみたからですか? それは、いったい何なんですか?」 「『なんておう』様の由緒を示す神宝とうかがっております」 「『なんておう』様? 『なんておう』様って、僕がこの間、川上さんの口からも聞きましたけど、いったい何のことなんです?」 「それは——」  ユキが言いかけた時だった。突然、二人が腰を抜かすような罵声《ばせい》が轟《とどろ》いた。 「馬鹿者! それを言うてはならん」  源義とユキが振り返ると、何とそこに川上惣右衛門が憤怒の形相で立っていた。 「何か様子がおかしいと思ってつけてきたら、このザマだ。ユキ、お前はこの里の掟《おきて》を破る所存か!」  ユキはびっくりして、泥だらけの地面にすわり込み、その場で土下座した。 「申し訳ございません。お許しくださいませ、総代様」 「掟破りの罪は重いぞ」  惣右衛門は容赦なく浴びせた。 「待ってください。それは、僕が勝手に聞いたんです。この人の罪じゃない。僕が無理やり聞き出したんです」 「もういい、あんたは。とっとと荷物をまとめて帰ってくれ。聞いてのとおりだ。あんたの友だちもお姫様も、もうこの村にはおらんのだ」  そう言う川上の目には、先ほどの怒声の時とは違う、どこか悲しみの色があった。 「しかし、川上さん、僕は知りたいんです。『なんておう』様って」 「くどい!」  惣右衛門は再び怒鳴った。 「もし、四の五の言うなら、村の若い衆総出で、あんたをこの村から放り出してもいいのだが、そうされたいのかね」  源義は唇をかんだ。そこまで言われては、止むを得なかった。 「わかりました。失礼しました」  源義は、その日のうちに急いで荷物をまとめて、後ろ髪を引かれる思いで三之公村を去った。  帰りもまた吉野で一泊し、翌日の昼に京都へ戻った源義は、真っ直ぐ伏見の榊家に向かった。問題は、何と報告するかだ。 (やはり駆け落ちのことは、言わざるを得ないだろうな)  と、源義は考えた。確かに破廉恥《はれんち》なことには違いないが、生きているか死んでいるかを案じている家族にとっては、少なくとも無事でやっているということを証明することになるからだ。 (それにしても、榊も葉書の一枚ぐらい実家宛に出せばいいのに)  と源義は思った。  伏見の榊家の門前まで来た時、源義は突然目つきの鋭い男に誰何《すいか》された。 「角川源義だね?」 「はい、そうですが」  不思議そうに、源義は相手の顔を見た。まったく知らない顔である。 「警察の者だ。ちょっと来てもらうぞ」 「えっ、いったい何ですか」 「お前の友人、榊増夫なるものについて調べたいことがある」  源義は、その場で伏見署に連行された。そして、暗い取調室で尋問された。尋問に当たったのは、先ほどとは違い、何か粘着質の生物を連想するような、あくの強い脂ぎった取調官であった。その取調官はにやにや笑いながら、 「角川君、君は前歴もきれいなもんだし、将来を嘱望されている俊英だということもわかっている。だから、つまらんことを隠し立てして身を滅ぼすようなことはするべきじゃないと、私は考えるんだがね」 「いったい、何のことです?」 「君の友人の榊増夫のことだよ。彼の行く先を、君は知っているんじゃないかね」 「いえ、知りません」 「もう一度言うが、下手な隠し立てをするとためにならんよ。君が友情のためにやったことでも、それが国家にとって取り返しのつかない損失を与えかねないということもあるんだ。榊増夫は、特に危険人物だ」 「彼はただの学生ですよ。いったい、榊が何をやったというんです?」 「それは機密事項だ。だが、これだけは言っておく。榊増夫はスパイだ。アメリカのスパイだよ」 「まさか」  源義は、思わず笑ってしまった。そんなことがあるはずがない。しかし、取調官はそれを自分に対する嘲笑《ちようしよう》と見たのか、形相を一変させ、テーブルをげんこつで叩《たた》いた。その激しい音に、源義は首を竦《すく》めた。 「冗談などではない。まず、彼の師匠であるパウエルという男がすでに逮捕されておるが、この男はアメリカの諜報《ちようほう》機関の日本における長であるということが、すでに判明しておる」 「パウエルって、あのパウエル神父ですか?」 「そうだ。知っておるのか?」  取調官は、ぎろりと源義を睨《にら》んだ。 「いえ、知っているというほどでは。彼の寄宿舎に一度行った時に、親しく話し込んでいたので挨拶《あいさつ》をしただけです」 「ほう、親しく話し込んでな。その内容は聞いたか?」 「いえ、僕が行った時は、もう話は終わった後でした」 「そうか、何を話しとったか知れたもんではないな。いいか、あの男はスパイだ。君の友人の榊増夫もスパイだ。パウエルはすでに捕らえた。あとは榊を逮捕することが、この国のためだ。君も日本人なら協力したまえ。榊はどこにいる?」 「本当に知らないんです。知らないからこそ、僕は奈良の吉野の山奥まで探しに行ったんです」 「三之公村だな?」  源義はハッとして顔を上げた。警察はそこまで知っているのか。 「われわれをなめちゃいかん。われわれには憲兵隊からも情報が入るんだ。君も、憲兵に取り調べられるような身にはなりたくないだろう」 (憲兵でも特高でも同じようなもんだ。どちらも関わりたくない)  と、源義は思った。しかし、そんなことはおくびにも出せない。 「本当に知らないんですよ。知らないからこそ、探しに行ったんです」 「では、聞くが、他に彼の立ち回りそうなところに心あたりは?」 「いえ、残念ながらありません」 「それじゃあ、何か連絡はなかったかね?」 「それもありません」 「ふーん」  取調官は疑わしそうな目つきをした。 「本当ですよ、信じてください」  源義は主張した。  そこへドアがノックされて、別の係官が入ってきた。そして、取調官に何事か耳打ちをした。それを聞くと、取調官は満面に笑みを浮かべて頷《うなず》いた。 「よし、もう帰っていいぞ」  取調官が突然言ったので、源義は驚いた。いったい、どういうことだろう。今、もたらされた情報が何かきっかけになったのか。 「何かあったんですか?」  源義は聞いてみた。 「そんなことは、気にせんでもよろしい!」  取調官はぴしゃりと言った。 「今日、ここで見聞したことは忘れて、明日からは学業に励みたまえ。それが、君のとるべき道だ」  源義はようやく釈放された。  京都に着いた時は昼だったが、もう日が暮れかけていた。源義は仕方なく榊家を訪ね、三之公村での見聞を話した。特高に調べられたことや、榊がスパイ呼ばわりされたことなどは一切話さなかった。そんなことをしても、心配するだけだ。 「そうですか、駆け落ちねえ——」  榊の母は、いまひとつ釈然としない表情だった。彼の父親は酒の仕込み用の米の買いつけに行っており、ここしばらくは戻っていない。最近は、米の買いつけもなかなか難しくなっている。物資が足りなくなっているからだ。しかし、それは榊にとって幸いだったかもしれなかった。謹厳な父親が駆け落ちなどと聞けば、廃嫡《はいちやく》にするしないの騒ぎになりかねないからだ。 「それにしてもお兄ちゃん、駆け落ちなんて見直したわ」  百合子が言った。 「アホなこと言うもんじゃありません」  母親が窘《たしな》めた。 「でもなぁ、兄ちゃん、葉書一枚ぐらい寄越しても罰は当たらへんのに」  と百合子は言った。  源義は今こそ、榊が葉書一枚寄越さない理由がわかった。だが、それを口にすることはできない。特高警察が見張っているからなどと言えば、この母娘は目を回してしまうだろう。 「それにしても、無事だったから良かったじゃないですか」  源義は心にもないことを言った。 「とにかく、しばらく様子を見ましょう」 (何がしばらくだ。俺もいい加減なやつだな)  源義は密かにそう思ったが、何事も口に出すわけにはいかない。すべて胸の中に仕舞い込み、その日は再び榊家に泊まった。 「角川さん、角川さん、起きて、大変」  源義は翌朝、百合子のけたたましい叫び声にたたき起こされた。 「何があったんです?」  源義は、寝ぼけ眼で目をこすりながら言った。気がつくと、百合子は涙ぐんでいる。 「一体、何があったんですか」  源義は、今度は真剣になって聞いた。百合子はその場にへたへたと頽《くずお》れると、 「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが死んだって」 「えっ、どこで? いつですか?」 「今、警察から電話があって、心中しているのが見つかったっていうんです」 「心中? 相手は、まさか……」  百合子ははっきりと頷《うなず》いた。 「貴宮多鶴子という人だそうです」  源義は目眩《めまい》がして、思わずその場に倒れこんだ。 [#改ページ]   第三章      一  榊増夫と貴宮多鶴子の死体が発見されたのは、神奈川県の大磯《おおいそ》海岸に近い、通称、坂田山という場所である。小高い丘のような山であった。 「坂田山ですって? あの坂田山心中の?」  源義は、とるものもとりあえず、増夫の母貞子と百合子を連れて東海道線の急行に乗り込んだ時、初めてその場所を聞いたのである。 「そうです。あの『天国に結ぶ恋』の」  坂田山とは昭和七年(一九三二)、当時慶應大学の学生と静岡県の資産家の娘が服毒自殺、つまり心中をしたことで有名な場所であった。この後、埋葬された娘の死体が盗まれ、裸にされて大磯海岸に放り出されるという猟奇的な経過をたどったため、大変な評判となり、その際、改めて行われた検屍によってヒロインが処女であることが証明されたため、『天国に結ぶ恋』という映画まで作られ、大変な評判をとった。西条|八十《やそ》作詩の「二人の恋は清かった 神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」という、男女の歌手が掛け合いで歌う主題歌まで作られ、一世を風靡《ふうび》したのである。 (待てよ。そういえば、あの坂田山心中が評判となった後、あそこで何人か同じような男女が心中を遂げていたな)  日本人は、自殺や心中の類が大好きなのだろうか。とかくブームになる。明治時代には、藤村操《ふじむらみさお》という一高の生徒が華厳の滝で投身自殺を遂げ、その際、「巌頭《がんとう》の感」という有名な遺書を残したために、華厳の滝で投身自殺をするのがブームとなり、坂田山心中の後は坂田山で心中するのがブームとなり、その後の心中のメッカとしては大島三原山があった。ここも仲良しの女学生同士が飛び込み自殺を図り、一人が成功するという事件があってから、われもわれもと飛び込むようになったのである。  あれ以来、不思議なもので、坂田山は忘れられた形になっていた。一つは、監視が厳しくなったことにもよる。あまり自殺の名所として有名になってしまうと、警察もそこに目を付け、それとなく監視するようになる。逆に言えば、人気が去った坂田山はかっこうの心中場所であるとも言えた。  一行が現場に着いた時は、日はすでに西の海に没せんとしていた。三人を出迎えた地元署の山下という刑事は、どことなく応対が横柄《おうへい》で冷たかった。霊安室に案内された三人は、遺体と対面した。貞子が真っ青な顔で動けずにいるので、源義は先に立って亡き友の顔にかけられていた白布を取った。源義は思わず呻《うめ》いた。それは、決して安らかな表情ではなく、むしろ断末魔の苦悶《くもん》を残した、尽きせぬ恨みを込めたような表情だったからである。貞子も百合子も、それを見て、思わず泣き崩れた。  対面が終わると、係官が控室で死体確認の調書をとり、それも終わると山下という刑事がやってきて、問わず語りに現場の様子を話した。 「息子さんは、相手の女性を左側に寝かせ、自分の左手首と相手の右手首をハンカチのようなもので結んでおりましたな。毒物は青酸カリです。ま、どこで手に入れたのか知らんが、写真の現像なんかにも使う薬品だから、手に入れられないこともないでしょう。  そして、仰向けの状態で絶命しているのが、今朝発見された。死亡推定時刻は、おそらく昨夜の夜半といったところでしょうかな」 「刑事さん、僕ずっと考えていたんですけれども」  と、源義が横からたまりかねて言った。 「彼が自殺するはずがないんです」 「ほう。なぜだね?」  山下という刑事が不愉快そうに言った。 「だって、彼はキリスト教徒ですよ。クリスチャンですよ。キリスト教徒は自殺しちゃいけないことになっているんです」  源義がそう言うと、貞子も百合子もはっとしたように源義を見た。しかし、刑事はそんなことは歯牙《しが》にもかけず、 「キリスト教徒だから自殺せんとは、限らんだろう。例外というのは、いつの世の中にもあるものだ」 「でも、西洋のキリスト教国では自殺というのは極端に少ないんですよ」 「極端に少ないということは、まったくないということじゃないだろう」  山下刑事は切り返した。源義はぐっと言葉に詰まった。 「それにだ。遺書はなかったが、それに準ずるものはあった」 「何ですか、その準ずるものとは?」 「待ちなさい」  山下は立ち上がって隣の部屋に行くと、しばらくして、大きな茶封筒を持ってきた。そして、テーブルの上に茶封筒の中身をぶちまけた。それは榊の遺品であった。その中で、小さく折り畳まれた紙片を手に取ると、山下はそれを源義に示した。 「開いてみたまえ」  源義は訝《いぶか》しげにそれを開けてみると、それは縦二センチ、横七センチぐらいの小さな紙片で、そこには『道行では仕方がない』と書いてあった。 「これは?」 「仏さんが、右の掌に固く握っていたもんだよ。これはどうだね、本人の字じゃないかね?」  源義はよく見てみた。それは確かに、見覚えのある榊の字だった。右肩上がりの几帳面《きちようめん》な、それでいて、やや癖のある字である。その紙片の表には、薄い罫線《けいせん》が走っており、どうやらノートの紙の一部分を切り取ったものらしかった。 「あんた、知らんかね。道行《みちゆき》というのは、言ってみれば心中のことだろう。それとも、そんな古い言葉は知らんか?」 「いえ、それぐらいは知っていますが」  と、源義は憤然として言った。  確かに歌舞伎では、よく道行という言葉が出てくる。男女二人がそれこそ同じ道を行き、挙げ句の果ては心中するということだ。心中そのものとは言えないにしても、道行というのは心中への第一歩であることは間違いない。 「それを握っていた以上、心中の意志があったと見るのが当然じゃないかね?」 「で、でもですよ、刑事さん」  と、源義は必死に反駁《はんばく》の言葉を探して、 「ここには『道行では仕方がない』とあるじゃないですか。『道行では仕方がない』ということは、そうなりたくはないということでしょう」 「そうなりたくはないということは、そうなる意志があるとも言える」  山下は意地悪そうに言い返した。そして、さらに付け加えた。 「それに、本人には死を選ぶ有力な動機があったとしたら、どうかね?」 「それは」  源義は言葉に詰まると、山下は立ち上がって、 「角川君と言ったな。ちょっと来たまえ」  と、訝《いぶか》しがる貞子と百合子をそこに残して、山下は部屋を出て、廊下の隅に源義を呼んだ。 「君は知ってるんだろう? あの男が、榊増夫がアメリカのスパイだったこと」  源義は息を呑《の》んだ。思わず、あたりを見回した。 「京都の特高から連絡があったよ。君も取調べを受けたそうだな。君はどう思っているか知らんがね、わしがさっきからそのことを口にしないのは、あの親子に対するせめてもの武士の情けなんだがね」 「————」 「そうだろう。もう死んでしまったんだ。今さら、そんなことを言ってどうなる? 母親を悲しませるだけだ。大事に育てた息子が非国民だなんてな、とんでもない話じゃないか。だからこそ、わしはすべて穏便に済ませよう、つまり、ただの心中事件として処理をしようと思っているのに、お前が横から口を出したら、すべてぶち壊しになるじゃないか」  源義は今度こそ本当に言葉に詰まった。 「何なら、お前言うかい? 榊増夫はスパイだったと。そのお前の口から、あの親子に話すか?」 「いえ、それは」 「できんのなら、黙ってることだ。それが、一番いい解決策だ。息子も最後の最後になって、潔く自分の罪を認め、責任をとったわけだろう。それでいいじゃないか。あとは、ちゃんと葬ってやるのが君の仕事だと思うがな。どうだ、わかったのかね?」  源義は不本意だったが、頷《うなず》くしかなかった。 「わかれば、それでええ」  山下は機嫌がよくなり、笑みを浮かべた。  再び部屋に戻ると、今度は葬儀の話になった。 「増夫は家の跡継ぎでございます。葬式は京都で出します」  貞子は言い張った。だが、山下はそれにも反対した。 「実は、本人が言っておった大学の、何つうたかな、ああ、そう、カミングといったかな。カミングという神父から、先ほど電話があってな。もし、葬式に困っとるなら、大学の教会で、そのカミング神父という人が自ら葬式を主催してくれるそうだ。それに頼んだらどうかな。今さら、家へ戻って身内の恥を晒《さら》すこともないと思うが。それに、あんたの息子は耶蘇《やそ》だ。耶蘇は、耶蘇のやり方でやるのが一番いいんじゃないのかな」 「いいえ」  貞子は、びっくりするような大声で言い放った。 「元はと言えば、都会へ出したのが間違いでした。増夫はわが家の跡取りとして、ちゃんと日本古来のやり方で葬らせていただきます」 「わかった。あんたがそこまで言うなら、止めはせんが、遺体を運ぶだけでも結構な手間だよ。せめて、火葬にしていったらどうかね?」 「お母さん、それがいいですよ」  と、源義は断腸の思いでそれを勧めた。このままでは、友人榊の死は単なる心中事件として葬られてしまう。しかし、他にどんな方法があるというのだ。死因は、すでに確定している。  貞子はずっと長い間、唇を噛《か》みしめて考えていたが、やがて頷いた。 「わかりました。おっしゃるとおりにします。ひとつだけお願いが」  と、貞子は顔を上げて、 「息子の死んだところに、行ってみたいんです」 「行ってみたい? これからかね?」 「ええ、ぜひお願いします」  山下は外を見た。まだ夏の名残で、日は完全に落ち切ってはいない。 「わかった。じゃあ、車で案内しよう。親御さんとしては、まあ当然の気持ちだろうからな」 「ありがとうございます」  そこで、三人は山下刑事の案内で、警察の車に乗り、現場に着いた。現場はなだらかなスロープのある、ちょうど寝ころぶにはかっこうの草原があちこちにあり、それを囲むようにいくつか木立があって、細い道が山頂に続いている。ハイキングに来て弁当を広げたならば、ちょうどいい場所と思えるところであった。  山下はほんの少し山を登っただけで、 「ここだよ」  と、三人に場所を示した。そこはちょうど脇道《わきみち》に入って窪《くぼ》みになったところで、外からはあまり見えない。誰が置いたのか、花束が一つ、捧げられてあった。  貞子はその場にしゃがみこむと、両手を合わせて低く経文を唱え始めた。百合子と源義も、手を合わせて黙祷《もくとう》した。  どれぐらい時間が過ぎただろうか。 「さあ、もういいでしょう。間もなく真っ暗になる」  山下の声が聞こえた。源義は百合子と一緒になって貞子を支えるように立ち上がらせ、元きた山道を戻った。ふと、源義は誰かの視線を感じた。人里離れたというほどではないが、周りに人家はない山の中なのである。おかしいなと思ってぱっと振り返ると、木立の陰に背の高い痩《や》せぎすの男がさっと身を隠した。 「刑事さん、あれ」  と、源義は指さした。 「どうしたんだ?」  山下は面倒くさそうに、そちらを見た。 「変な男が、こちらの様子をうかがっていたんです」 「変な男? 気のせいじゃないのか?」 「いえ、そうじゃありません。確かに」  山下は、それでも少し後戻りして、木立の中へ入っていった。源義も後に続いた。だが、そこには誰もいなかった。 「やっぱり錯覚だな。どこか近在の農夫か何かじゃないのか?」 「いえ、違います。ちゃんとした革靴を履いて、普通の背広を来た男でした」 「じゃあ、昔の心中者の幽霊かもしれんな。ははは」  と、山下は一向にそんなことは信じていないかのように笑った。だが、源義は確かに見たと思った。 (それにしても、あの蝮《まむし》のような、人をぞっとさせる目つきは何だ)  その目だけは印象に残っていた。 (確かに、あんな目つきをする人間がこの世にいるとは思えない。ひょっとしたら、幽霊だったのだろうか)  源義の背中に冷たいものが走った。  山を下り、とりあえず警察署に戻ると、意外な人物に源義は出くわした。あの三之公村の川上惣右衛門である。惣右衛門は、源義と同年輩ぐらいの男を連れていたが、源義の姿を見かけると、いきなり早足で歩み寄ってきて、源義の胸ぐらを掴《つか》んだ。 「お前、お前、お前のような者がいるから、由緒ある貴宮家がとんでもないことに。お姫《ひい》様を返せ」 「ま、待ってください」  源義は悲鳴を上げた。さすがに、山下という刑事も割って入った。 「待ちなさい。この人は心中事件とは何の関係もない。逆恨みはよしなさい」 「この男が、お姫様のところに変な男を連れて来たんや。それが、すべての原因なんや」  惣右衛門は叫ぶと、感情が激してきたのか、その場にへたり込んで号泣した。 「申し訳ありませんでした」  青い顔をして謝ったのは、一緒にいた若い男である。 「私、川上誠と申します。惣右衛門の孫でございます。どうも、祖父が失礼なことをいたしまして」 「いえ、いいんですよ」  源義は青い顔をして言った。確かに二人を会わせたという点では、源義にも責任の一端はあるからだ。源義が、三之公村行きへの相棒として榊を選んでいなければ、こんなことにならなかったことも確かなのである。 「こちらへは、貴宮さんのことで?」 「はい。貴宮家は、ご存じのように当主が中風で寝たきりでございまして、村の総代である私どもが代わりにお姫様の亡骸《なきがら》を受け取りに参ったのでございます」 「そうですか。このたびは大変なことで、まことにお悔やみ申し上げます」 「痛み入ります」  誠はそう言って目を伏せていたが、あたりの注意が泣きわめく惣右衛門に向かっているのを知ると、そっと源義に近づいて耳打ちした。 「落ちつかれたら、一度ご連絡いただけませんか。お話ししたいことがあるんです」 「わかりました。ぜひ」  源義もそう言った。この事件の裏には、何かある。仮に心中が本当だったとしても、どうして心中までしなければいけなかったのか。なぜ、榊と多鶴子はそこまで思い詰めなければいけなかったのか。わからないことが多過ぎるのだ。  源義は、それから榊親子の付添いをし、榊増夫の遺体を荼毘《だび》に付して、密葬を済ませてから二人を京都まで送り届けた。その始末に三日かかり、東京へ戻ってきた時は四日目であった。      二  源義は東京に戻ると、疲労|困憊《こんぱい》はしていたが、とりあえず下宿にも戻らずに國學院大学へ出ると、折口研究室を訪ねて師に事の顛末《てんまつ》を報告した。折口は驚いて源義の話を聞いていたが、源義がひととおり話し終わると目を閉じて、 「そうか、それは大変だったね。君もご苦労だった。しかし、良いことをしたね」  と、源義の行動を褒《ほ》めた。 「そうでしょうか?」  源義は疑問を持って言った。 「そうだとも。それでいいんだ。角川君、この問題には、もうこれで決着をつけたほうがいいと、私は思うな」 「どういうことでしょう、先生?」 「君は、まだ何か疑問に思っていることがあるんじゃないのかね?」 「ええ、あります」 「例えば?」 「例えば、それは本当に心中なのかということなんです」 「つまり、殺人事件だったかも知れない、ということか?」 「はい」 「だとすると、犯人はいったい誰だ? 何のために彼を抹殺する必要がある?」 「それは、彼がアメリカの——」  と、源義はそこまで言って絶句した。折口は、それを予期していたように、 「そうだろう? 仮に、それが原因で殺されたとすると、殺した人間は誰になる? 明白なことじゃないか。仮に、君が事件の真相を掴《つか》んだとしても、相手を逮捕させるどころか、処罰することもできないんじゃないか?」  確かにそうだ。アメリカのスパイを心中に見せ掛けて殺す人間がいるとすれば、それは特高警察なり憲兵隊なり、要するに日本の国家の中枢を占める部分の人間であろう。そういう人間を罪に問えるとは、到底思えない。 「だから、やめておきなさいと言うのだ。君の将来も、こんなことで傷つけたくないし」 「でも、先生、他にもいろいろ知りたいことがあるんです。あの源氏物語はどうなったのかとか、貴宮家というのはどういう家であるのか」 「それも、かなり危険であることとは思うがね。それは、私の予感なんだが。しかし、角川君、本当にその事件は心中事件ではないと、君は思っているのかね? 心中事件に見えるふしは、何もないのかね? 実際、二人の男女が心中死体で発見されたというのは、そういうことではないのかな?」  師の折口は、探偵小説好きであった。専門は国文学、民俗学でありながら、欧米の、特にイギリスの探偵小説を非常によく読んでいる。だから、日常会話にも「アリバイ」「殺人」といった言葉が時々出てくるのだが、確かに探偵小説好きの人間らしく、その点の分析は鋭かった。 「実は、こんなものがあるんです」  と、源義は鞄の中から油紙に包んだ紙片を大切そうに取り出した。 「これは?」 「榊が、死に際に手に握っていたものです」  源義が言うと、それに触れかけていた折口は、慌てて手を引っ込めた。そして、ちらりと不快そうな表情を浮かべた。 (ああ、そうか。先生は死の穢《けが》れがお嫌いなんだ)  とわかった源義は、紙片を自分の手で広げ、折口にわかるように目の前に示した。 「ほう。『道行では仕方がない』」 「そうなんです。係官は、これがですね、道行、つまり心中をする意図があったという証明だと言うんです」 「これは、確かに本人の筆跡なのかね?」 「そうなんです。紛れもなく本人の筆跡なんです」 「紙は、ノートの紙のようだね」  さすがに折口は鋭かった。 「ええ。彼がよく使っていた大学ノートの切れっ端だと思います。  何で、こんなことを書く必要があったのか? 仮に心中するにしても、自分が心中するぞということを、これほど直截《ちよくせつ》な言葉で書くでしょうか? そのへんが、僕は疑問なんです。しかも、『道行では仕方がない』。道行以上のことを何かやる意図があったようにも思えるし、そのへんが僕にはまったくわからないのです」 「うーん。道行には、他にどんな意味があったのかな」  と、折口は立ち上がると、大槻《おおつき》文彦の『大言海』を取り出して、道行を引いた。そこには、  名詞/道行 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  1、道を行く  2、歌舞伎に男女連れ立ちて行く  3、それを演ずる [#ここで字下げ終わり]  とある。確かに、道行そのものには心中という意味はないと言えば言えるかもしれない。しかし、そもそも男女が揃《そろ》って一種の駆け落ちをするということだから、その準備行動だと言えなくもないのである。 「こうも考えられるね」  と、折口は言った。 「道行では仕方がない。心中ならいい。そういう意味だと言うこともできるよ」  源義は慌てた。それだと、確かに二人に、いや、少なくとも榊には心中の意図があったことになってしまう。 「確かに、先生のおっしゃることも一理も二理もあると思うんですけれども。じゃあ、どうしてこの部分だけを、こんな小さな紙片に書いて、しかも強く握っていたのかということが、僕にはわからないんです」 「なるほどなあ」  折口は辞書を閉じて元へ戻すと、 「君の言うことはわからないでもないし、この件について君が興味を持つのはよくわかる。だが、あくまで年長者の一人として君に忠告するなら、こういうことには手を着けないほうがいい。『触らぬ神に祟《たた》りなし』というのは、何も宗教上の話ばかりではない。実生活でも役に立つ諺《ことわざ》なのだよ」 「わかりました。そのお言葉、肝に銘じておきます」  源義は頭を下げて、部屋を出ていこうとした。 「そういえば」  と、折口は最後に興味を示した。 「その榊君という君の友人は、結局、仏式で葬られたのかね? それともキリスト教式で葬られたのかね?」  民俗学の、特に葬礼・墓礼の研究にも詳しい折口ならではの質問であった。 「結局、仏式でした。彼のお母さんが頑強に主張したものですから。実は、彼の大学の神父さんのほうから、うちのほうで葬式をしてあげてもいいという連絡があったのですが、お母さんがそれを突っぱねまして、結局、戒名を貰《もら》って先祖代々の墓に眠ることになるでしょう」 「うん。ま、それもひとつの日本の原理かもしれないね」  折口は感慨深げに言った。  源義は、疲れた体で下宿に戻った。ここ二、三日の出来事は、彼の精神と肉体を極度に疲労させるのに十分な出来事であった。 (風呂にでも行ったら、今日は早く寝ようか。もう疲れたよ)  源義はこのところ、まるで休養をとっていなかった。夜は一応、床に入る時間はあったのだが、目が冴えて、とても眠れなかった。まあ、丸々三日徹夜したようなものである。さすがの若い肉体も、もう限界だった。  源義は帰郷の挨拶《あいさつ》もそこそこに、下宿の二階に上がろうとした。 「角川さん、手紙が来てますよ」 「手紙? 僕にですか?」 「これ」  と、下宿のおばさんが渡してくれたのは、粗末な封筒に入った封書だった。裏を引っ繰り返すと、上野|仏蘭西軒《ふらんすけん》とあった。上野にある高級レストランで、その名前は源義も耳にしたことはあった。ただし、食事をしたことはない。どこかの偉い先生の還暦記念パーティの末席を汚《けが》した時に、一度行ったきりである。 (何だろう?)  源義は封を切って、中を見た。そして、仰天した。それには次のように書かれてあったのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    先日、お忘れになった源氏物語一巻及び手鞄をお預かりしております。お暇の節にお寄りください。尚、当店の定休日は水曜日でございます。 [#ここで字下げ終わり] (仏蘭西軒に源氏物語が? それも、俺の忘れ物?)  そんなはずはありえなかった。しかし、源義は咄嗟《とつさ》にあることに気がついた。部屋を飛び出しかけて、源義は慌てて部屋に戻り、小さな四六判のアルバムの中から榊と一緒に写った写真を一枚引きはがしてポケットに入れた。そして、とるものもとりあえず、仏蘭西軒に駆けつけた。 「この手紙を頂いた角川源義です。忘れ物の本を取りにまいりました」  源義が言うと、支配人と名乗った男は源義をジロジロと見て、疑わしそうな目つきをした。 (やっぱりそうか)  源義は事情を説明した。 「ここへその鞄を持ってきたのは僕じゃなくて、僕の友人の榊増夫という男なんです。その男が忘れたんです。だけど、鞄の中に宛て名が書いてあったので、こちらに知らせてくださったんでしょう?」 「ええ、そうだけど」  源義は、自分の推理が当たったのを感じた。そして、胸のポケットから写真を出して、支配人に見せた。源義と榊が一緒に写っている写真である。 「この男でしょう、来たの?」 「ああ、そうだね」  支配人は破顔して、疑いを解いた。 「そう、あの時の学生さんと違ったものだから、どうかなと思ったんだけど、失礼しました。今、取ってきます」  支配人が持ってきてくれたのは、高級な牛革で作った小型の薄っぺらい鞄で、おそらく相当な金を払わなければ買えない品物であった。源義は開けて中を見た。錦の布で表装された和綴《わと》じの本が入っていた。表題に「源氏物語」とある。中をめくってみると、流れるような草書で文字が書かれてある。一読しただけで、それは源氏物語の一節だということがわかった。 (これだ!) 「じゃ、確かにお返ししますよ。高そうなものだから、ちょっと心配していたんでね」  支配人は笑った。源義は慌てて、 「ちょ、ちょっと待ってください。どうして、この本が僕の物だとわかりました?」 「だって、内側にあんたの名札が入っていたよ」  支配人は言った。源義が探ってみると、確かに名刺大の紙に源義の下宿の住所と名前を書いた紙が入っていた。 (榊の字だ)  やはり間違いないと、源義は思った。 「すると榊は——、いや、つまりこの写真の彼ですけれども、ここへ来た時にこれを忘れていったわけですね?」 「そうだよ。あんた、この本を彼に預けていたの?」 「そうなんです。いや、戻ってよかった。で、彼はここで誰と食事していたんですか?」 「誰って、外人さんだけど」 「外人? いくつぐらいの?」  そこで、支配人は妙な顔をした。そんなことは、本人に聞けばいいじゃないかという顔だ。そこで源義は、神妙な顔をして言った。 「実は、この榊という男は四日前に死んじゃったんです。不慮の事故で亡くなってしまったんです。この前、葬式を済ませてきたばかりです」 「ああ、そうですか。それならね」  支配人は気の毒に思ったのか、真剣な表情で思い出してくれた。 「確か、あれはどこかの神父さんじゃないのかな。僧服を着ていたからね。カソリックの宗派……、うーん、名前はちょっとわからないが、三十がらみの金髪で、まあ、結構目立つ方でしたよ」 「そうですか。どんな話をしていたかなんていうことは、わからないでしょうね?」 「それはね。やはり、われわれは近づけませんから。お客さんの話なんか聞いたら、失礼だし」 「そうですか。失礼しました」  源義は頭を下げると、急いで仏蘭西軒を出た。ちょうど、そのあたりにタクシーが止まっていたので、源義は懐具合も考えずにその車に飛び乗った。疲れていたし、一刻も早く帰って、この本を読みたかったからだ。 「恵比寿まで」  源義が言うと、車はスタートした。源義は日が落ちた中で一頁ずつ本をめくり、興奮して読みふけっていたが、突然、運転手が源義に話しかけてきた。 「あんた、何かわけありの人?」 「わけあり? わけありって、どういうことですか?」 「いや、その、借金に追われているとか、駆け落ちの片割れとか」 「そんなことありませんよ。どうして、そんなこと言うんですか」  源義は笑って抗議した。 「いや、何かさっきからつけてくる車があるからね」 「えっ?」  源義はぞっとして後ろを見た。確かに車がヘッドライトをつけて、タクシーの後をピタリとついてくる。 「いや、この道、滅多に車なんか走らない道だからね。変だと思ったんだけど、さっきから、こちらが右へ曲がれば右へ曲がり、左へ曲がれば左へ曲がり、どう考えても、つけてるとしか思えないんだがね」 「運転手さん、お願いがあります」  源義は必死になって言った。 「あの車をまきたいんです。何とかできますか?」 「まくねえ——。それはなかなか難しいことだよな」 「お願いします。多少、回り道になっても構いませんから」 「あんた、何か悪いことをして追われているんじゃないでしょうね?」 「いや、そんなことありません。僕は潔白です。ただ、変な奴《やつ》らに目を付けられているんです。お願いします」  運転手はしばらく考えていたが、やがて前を向いたまま頷《うなず》いた。 「いいでしょう。お客さんの安全を守るのが、われわれの義務だからね。じゃあ、ちょっと危ないかもしれませんが、やりますよ」  と、運転手はいきなりアクセルをいっぱいに踏み込んだ。車は軋《きし》むような音をして走り出した。後ろの車も驚いたように加速して、後を追ってくる。 「そろそろ、時間だな」  運転手は呟《つぶや》くと、渋谷駅の前を通り過ぎ、玉川線のほうへ回った。恵比寿からは逆の方向になる。このあたりは住宅街で少し寂しいところだが、玉川線の電車の明かりだけが夜目にもはっきりと見てとれた。 「ちょっと危ないけど、やりますからね。まあ、怖かったら目を瞑《つむ》っていてください」  何をやるのかと思ったら、運転手は玉川線の踏切に近づいた。そして、それまではスピードを緩めていたが、ちょうど電車が差しかかる頃になり、踏切の信号が点滅した時に急にスピードを上げて、その踏切を突っ切った。間一髪であった。源義の車が通り過ぎると踏切の竹竿《たけざお》が下りて、車は入れなくなった。 「これで大丈夫でしょう」  運転手は言った。追ってきた車は、踏切に引っかかってしまったのである。 「ありがとうございました」  源義は頭を下げた。 「本当に助かりました」 「さて、これからどうするね? やっぱり恵比寿へ行きますか?」 「いや、やめます。そうだ、目黒へ行ってください」  源義は言った。そこに、富山時代の友人である中山次郎の下宿があるはずだ。中山は親戚《しんせき》の家に寄宿して、法政大学に通っているのである。しばらく会っていないが、頼み込めば泊めてくれるだろう。  源義は無事目黒に着くと、中山の下宿に転がり込んだ。      三 「驚いたな。タクシーで乗り付けられて、いきなり今日泊めてくれだもんな」  中山は笑った。  彼の家は富山で製紙工場を営んでおり、かなり裕福だ。この東京の叔父《おじ》の家も、それに関連した仕事を手伝っているはずである。中山の下宿は珍しく洋式で、ベッドとテーブルがあり、靴は脱ぐがスリッパで生活するという、まるでホテルのような形式であった。 「ここは外人が来た時、泊める部屋だったのさ。でも、今は叔父貴《おじき》も転業したんで、そんな必要がなくなったんだ」  と、中山は説明した。 「昔は何をやっていたんだい、叔父さんは?」 「うん、アメリカとの、まあ一種の貿易なんだけどね。最近はうま味がなくなって、手を引いたらしいよ。今は親父の製紙工場を手伝っている。製紙工場の東京営業所といったところかな。叔父貴のほうは母屋にいるから、別に気をつかわなくていいよ」  中山はそう言ってくれた。源義はほっとした。 「すまんが、ひとつ頼みたい」 「何だい、改まって?」 「ちょっと風呂に入りたいんだ。何とか入れてくれるか?」 「ハハハ、風呂ぐらいなら、内湯があるよ。ぜひ入りなさい」  源義は、中山家の西洋風バスに入った。  源義は、西洋式バスに入るのは初めての経験だった。風呂の中で石鹸《せつけん》を使うのは、なんとなく嫌だったが、外で体を洗うと水が床に染み込んでしまうと、中山に言われ、仕方なくそうした。泡だらけの風呂に浸かっているのも、意外に気持ちがいいと源義は思った。 (あの源氏物語を今晩、徹夜してでも通読しよう)  睡魔が襲ってきた。考えてみればこのところ、ろくに休んでいない上に、今日は走り回ったのだ。 (眠い)  しかし、ひと眠りしようという気にはどうしてもなれなかった。あの『源氏』を読むのだ。『源氏』を読んで、とにかくこれまでの『源氏』との違いを大筋だけでも明らかにしておかなければならない。そしてそれを明日、折口先生のところに持っていく。 (先生はよろこぶだろうな)  おそらく、折口の手でこの『源氏』は大々的に発表されることになるだろう。それにしても、この『源氏』が手に入ってよかったと、源義はしみじみと思った。おそらく榊は忘れ物のかたちで連絡が行くように、わざわざあの場所に、それも人の物をねこばばしないような、高級レストランに置き忘れたかたちをとり、こちらの手に入るようにしてくれたのであろう。なぜ、郵便で送らなかったのかなと考えて、源義はぞっとした。特高警察だ。特高警察は、おそらく源義のところに配達される郵便をすべて検閲しているのであろう。そんなことは、彼らにとっては朝飯前のことだ。郵便局にちょっと声を掛けておけばいい。おそらく、もし、郵便のかたちで『源氏』を自分のところに送ってきていたら、届かなかっただろう。 (うまいことを考えたものだ)  と、源義はいまさらながらに、榊の頭のよさに感心した。現実には封書で来たが、仮に仏蘭西軒からの手紙が葉書であったとしても、そこには忘れ物を取りにこいと書いてあるだけだから、それを榊と結び付けて考える人間はいない。確かに源氏物語とはあったが、それが榊のものであるということが書いてない以上、さすがの特高にもわかるはずがないのである。そうまでして、自分の手に『源氏』が渡るように配慮してくれた榊に、源義は心の中でそっと手を合わせた。  シャワーを浴びて、石鹸《せつけん》の泡を落とし外へ出た源義は、中山から寝巻の代わりに浴衣《ゆかた》を借りて、ついでに机と電気スタンドも借りた。寝床の中に入って読むという手もあったが、それをすると、どうしても寝てしまいそうで、それが怖かったのだ。源義は、うんと濃いお茶を入れてもらって、それをまず飲んでから、問題の源氏物語の読解に取りかかった。大きさは半紙大で、中の紙もほんの少し虫食いの跡があるが、まずは高級な紙であった。ただし、模様を散らしたり、色を付けたりした色紙ではない。普通の紙である。そのどちらかと言えば、やや質素な頁を覆っている表紙は、綾錦《あやにしき》で作られた実に見事なものであった。これはおそらく、古いかたちの原本が伝わっているところに、表紙だけ新しく取り替えたものと見えた。絵は描かれていない。源義はまず一時間ばかりかけて、その源氏物語を一気に通読した。細かいところまではわからないが、だいたいにおいて現在流布している源氏物語と、ほとんど同じ内容であった。ただ、いちばん違うのは、全部で十七|帖《じよう》しかないということである。源氏物語は本来五十四帖で、主人公が変わる宇治十帖を除くと、残り四十四帖。そして更に、光源氏の光輝に満ちた前半生を語る第一部は、冒頭の桐壺から藤裏葉《ふじのうらば》までの三十三帖である。この源氏物語は、その三十三帖までのうちの、十七帖だけが連続したかたちで載せられていた。それを、源義はノートにまとめてみた。概略は次のようになる。  数字上段・貴宮本の巻数 数字下段《》内・現行の源氏の巻数 ———————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して7字下げ] 1桐壺《きりつぼ》 (1)光源氏の出生の事情 2若紫《わかむらさき》 (5)将来の妻となる紫の上に初めて会う 3紅葉賀《もみじのが》(7)藤壺が光源氏との不倫の子を産む 4花宴《はなのえん》 (8)朧月夜内侍《おぼろづくよのないし》と出会う 5葵《あおい》  (9)六条御息所《ろくじようのみやすどころ》の生霊に取り憑《つ》かれ、正妻の葵《あおい》の上が死ぬ         紫の上と結婚する 6賢木《さかき》 (10)藤壺が光源氏との縁を断つため出家する 7花散里《はなちるさと》(11)亡き父・桐壺帝を偲ぶ 8須磨《すま》 (12)光源氏、失脚をおそれ、自ら須磨に退去する 9明石《あかし》 (13)光源氏、明石の君と結ばれる。都に召還され、政界に返り咲く 10澪標《みおつくし》 (14)光源氏と藤壺の間の不義の子である東宮が即位して、冷泉帝となる 11絵合《えあわせ》 (17)六条御息所の遺児、光源氏の後押しで冷泉帝に嫁ぐ 12松風 (18)明石の君、京に住むことになる 13薄雲 (19)冷泉帝、自分が光源氏の息子であることを知る 14朝顔 (20)光源氏、朝顔の姫君に懸想するが、ことならず 15少女《おとめ》 (21)光源氏の長男・夕霧、内大臣の娘|雲居雁《くもいのかり》と恋仲になる 16梅枝《うめがえ》 (32)光源氏の娘、明石の姫君の東宮への入内が間近になる 17藤裏葉(33)内大臣、夕霧と雲居雁の結婚を許す。明石の姫君が入内する         光源氏異例の准《じゆん》太上天皇(上皇)となる         光源氏の広壮な邸宅、六条院に冷泉帝が、兄朱雀院と共に御幸し、桐壺帝を偲ぶ [#ここで字下げ終わり] ————————————————————————————  こうして読んでみると、改めて気がつくのは、この源氏物語は、光源氏の輝かしい成功物語であるということだ。そもそも光源氏には、有力なライバルがいた。それは権勢を誇る右大臣家であり、その右大臣家の娘、弘徽殿女御《こきでんにようご》は後に、位に就く朱雀帝を産む。この弘徽殿女御は、ずっと光源氏の存在を快く思わない。それは、夫の帝が本当に愛していたのは、光源氏の母である桐壺更衣であるということを知っていたからである。しかも、その寵愛《ちようあい》ぶりから、彼女は桐壺帝が自分の産んだ東宮を差し置いて、光源氏に帝位を譲るつもりではないかと思い、激しく憎む。そしてその結果、その嫉妬《しつと》と迫害の中で、光源氏の母、桐壺更衣は悶死《もんし》してしまうのである。将来を危ぶんだ父、桐壺帝は光源氏を皇子から臣籍に降下させることによって、その将来を安泰なものにしようと図るのである。しかしこの後も、右大臣家と光源氏はことごとく対立する関係になる。  しかし、光源氏はそんなことにいっこうに頓着《とんちやく》なく、弘徽殿女御の妹である、朧月夜内侍《おぼろづくよのないし》に手を出したり、あまつさえ父、桐壺帝の寵愛する藤壺の宮にも手を出し、結局、不義の子を産ませてしまう。これが後の冷泉帝である。そんなことはつゆ知らぬ桐壺帝は、その子を自分と藤壺の間に生まれた子供だと信じ、しかも寵愛する光源氏によく似ていることから、この子を次代の天皇にしたいと思い、引退するにあたって、位を弘徽殿女御との間に生まれた朱雀帝に譲る代わりに、その東宮(皇太子)を藤壺との間に生まれた子にするように命じた。当然、弘徽殿女御(桐壺帝が引退して上皇となってからは、弘徽殿太后)はおもしろくない。ことごとく東宮を廃そうと陰謀を巡らす。それは、結局その東宮の後見に指名された光源氏にも迫害が及ぶということであった。光源氏は結局、朧月夜内侍との密通という弱みもあり、流罪などの処罰を受ける前に先手をとって、須磨に退隠する。ここで彼は明石の君と知り合い、後に一女を設けることになる。  ところが、光源氏去って後の都は、しきりによくないことが起こり、朱雀帝の周辺の人々はみな病気になる。しかも、朱雀帝の夢枕《ゆめまくら》に故桐壺院が立って、なぜ光源氏を大切にしないのかと詰《なじ》るような事件も起こった。この結果、朱雀帝は母、弘徽殿太后の執拗《しつよう》な反対を押し切って、光源氏を都に召還する。そして、位を東宮(光源氏の実の息子)に譲ってしまうのである。これが冷泉帝である。同時に光源氏自身も、内大臣に昇進する。  一方、光源氏との結びつきから、不幸な死を遂げた六条御息所の遺児、斎宮《さいぐう》を光源氏は引きとり、冷泉帝の後宮に入内させた。このライバルにはかつての光源氏の妻、葵の上の兄である権中納言の娘(これも弘徽殿女御と呼ばれる)がいたが、斎宮は光源氏の応援を得て、絵合《えあわせ》で勝つなどして、結局後宮随一の存在となる。この人は後に、秋好《あきこのむ》中宮となる。それと同時に光源氏も太政大臣に昇進する。  一方、後宮において光源氏側の秋好中宮のライバルであった弘徽殿女御の父(葵の上の兄)は、今度は次女の雲居雁《くもいのかり》を、次代の天皇である東宮のもとへ入内させようとするが、この雲居雁と、光源氏の長男夕霧が相思相愛の仲となってしまう。結局この恋は、原・源氏物語の最終巻である藤裏葉で実ることになる。夕霧は雲居雁との恋を成就させ、しかも光源氏と明石の君の間に生まれた姫君は、めでたく東宮へ入内する。将来の皇后となるであろう。そして、光源氏自身は臣下としては、異例の准太上天皇の地位についた。その光源氏が贅《ぜい》を尽くして造った六条院という大邸宅に、息子の冷泉帝とかつてのライバルであった朱雀院が訪ねてきて、共に桐壺院の思い出を偲ぶことによって、この最終巻は終わっている。  すなわち、光源氏はすべてのライバルに勝ち、圧倒的な勝利を収めているばかりか、その息子も、将来、皇后になる娘のライバルとなりうる女性と結婚している。つまり、逆に言えば、相手の家から皇后を出す機会の芽を見事に摘んでいるわけだ。まさに圧勝の物語であり、まったく翳《かげ》りのない物語である。  こういうかたちで十七巻を通して読んでみると、源義はまさにこれこそが、源氏物語の折口の言うプロトタイプ(原型)であることを痛切に感じた。それまで源氏物語というと、複雑で膨大で筋がつながらなかったという疑問が、こういうかたちで整理されてみると、非常に明快にわかることに気がついたのである。 (やはり、源氏物語多作者論は正しいんだ)  源義は、眠気も一切忘れて、必死にノートをとった。明日、折口先生に対して、この内容を詳しく説明しなければならない。もっとも、本を折口に渡せば、折口は源義の数倍の読解力で、これをあっと言う間に読んでしまうだろうけれども。 (おや)  源義は、その藤裏葉の巻のいちばん最後のところに、明らかに元の文字とは違う、書き込みがあるのに気がついた。書き込みといっても、毛筆で見事な筆跡で書かれた、きちんとしたものである。それは漢字で次の九文字であった。   入道相国是書為手本 「入道|相国《しようこく》、是《この》書を手本と為す」  源義は口に出して呟《つぶや》いてみた。おそらく、そう読むのだろう。しかし、これは誰が何のために書いたのか。入道相国とはいったい誰か。入道相国と言って、すぐに思い浮かぶのは、平清盛である。相国とは確か、大臣以上、それも左右両大臣あるいは太政大臣ほどの位に昇った人間を指す称号であるはずだ。しかも入道というのは出家をしているという意味である。だから、出家をした太政大臣(左右大臣)ならば、誰を入道相国と呼んでもいいのだが、特に平清盛が有名である。なぜなら、『平家物語』では清盛のことをときどき入道相国と呼んでいるからである。 (しかし、入道相国、是書を手本となすというのは、どういう意味なんだ。平清盛が、この源氏物語を政治の参考にしたとでも言うのだろうか)  言うまでもなく、平清盛は武士の棟梁《とうりよう》である。天皇のご落胤《らくいん》だという説もあり、しかも平家は武士と言っても公家の匂《にお》いが強い一族だから、清盛だって源氏物語を読んでいた可能性がないとは言い切れない。しかし、何のために源氏物語を読む必要があったのだろうか。いや、仮に退屈を慰めるために読んだとしても、それは絶対ありえないことではないが、手本とするというのはどういうことだろう。 (この成功物語にあやかるということかな)  確かに清盛は、それまでの武家では成しえなかったことをいくつかした。武士の棟梁でありながら、初めて太政大臣になったのもそうだし、自分の娘徳子を天皇に入内させ、子を産ませてそれを次代の天皇にしたのもそうである。これは藤原氏の常套《じようとう》手段であったが、同時に藤原氏の独壇場でもあった。他の氏族ではこれはできない。古代においては息長《おきなが》氏であるとか、橘《たちばな》氏であるとか、さまざまな大族から皇后が出たが、奈良を経て平安時代に入ると、天皇の皇后は藤原氏が出すというのが不文律になっていた。それを清盛が、初めて打ち破ったのである。 (そういうことなら、あり得ないことではないな、手本にしたというのも)  と、源義は思った。なぜなら、この貴宮本『源氏物語』の中で、光源氏のライバルと目されている右大臣家は、誰がどう見ても藤原氏であるからだ。この時代、これほどの権勢を誇り、自家の娘を皇室に嫁がせて、中宮にさせることのできる可能性のある家は、藤原氏しかいない。実際には、平安時代は皇族を除けば、藤原氏以外から皇后が出たことはない。源氏物語はその意味で、まったく架空のお話である。しかし、そのライバルとなる右大臣家のモデルは、明らかに藤原氏だ。そして、藤原氏がモデルであるからこそ、その姓は明記せず、単に右大臣家と表現されているのであろう。  清盛がこの源氏物語を、藤原氏に対する光源氏、つまり新興勢力の勝利の物語として読み解けば、自分の生き方、そして家を繁栄させる戦略の進め方として、これを手本としたとしても不思議ではない。  源義は、とんでもないことに考え至った。昔から、平清盛は天皇のご落胤であるという説が囁《ささや》かれている。その天皇とは白河天皇(法皇)である。伝説では、白河法皇が寵愛《ちようあい》した祗園《ぎおん》女御との間に子ができたのを、白河法皇はそれを知りつつ、清盛の父とされている平忠盛に授けた。そして生まれたのが、清盛だということなのである。これは、ずいぶん昔から、『平家物語』にもそれとなく語られており、天皇家の神聖性が強調される今でも、多くの人が知っていることなのだが、本当であるとは、これまで源義も思っていなかった。むしろ、武家としては異例の出世を遂げた清盛に対するやっかみから出たものだと思っている。つまり、本人の実力ではなく、ご落胤だからこそ、あそこまで出世できたのさという、今でも世間にある、当人の実力を正当に評価しようとしたくない人間のやっかみであろう。  だが、源義はひょっとしたら、落胤説のほうが正しいのではないかと、この瞬間から思いはじめた。もし清盛が、自分は天皇のご落胤であると知っていたならば、この源氏物語で言えば、皇子に生まれながら臣籍降下された光源氏と、よく似た立場であるということになる。そして、その光源氏が最終的にあらゆるライバルを圧倒し、自分の娘や養女たちを天皇家に嫁がすことによって、最大の権力を築き上げていく経過は、まさにこの貴宮本の光源氏と同じ道筋ではないか。  この貴宮本『源氏物語』は、そもそもどこにあったのか。貴宮家が南朝の流れを汲《く》む家であり、なおかつこれが、後醍醐天皇が吉野へ亡命政権をうちたてた時に持ち出された、宮中の秘宝の一つであったとしたならば、それ以前は宮中の奥深くに、おそらくは図書館のようなところに大切に保存されていたのであろう。それを、太政大臣となった、あるいは太政大臣となる以前の平清盛は、見る機会があったのだ。そして、清盛はあの�平家にあらずんば、人にあらず�の権勢を築き上げた。それを知った第三者、おそらくは天皇かそれに準ずるクラスの皇族あるいは公家が、そのことへの憤懣《ふんまん》もあって、この文句を書きつけたのではないか。『入道相国是書為手本』の九文字が語るドラマを、源義はそのように読み取った。  気がつくと鳥のさえずりがした。もう朝である。源義は、知らず知らずのうちに徹夜をしていた。中山が、寝巻姿のまま書斎に顔を出した。 「結局、寝なかったのか?」 「ああ。さすがに疲れたよ」  源義は眼鏡を取って、瞼《まぶた》の上を強く揉《も》んだ。 「朝飯、食っていくか?」 「ああ」  と、源義は答えたが、食欲がなかった。 「できれば目の覚める、お茶がいただきたいな。それだけでいいよ」 「じゃあ、紅茶だ。うちは、朝は洋式でね」  中山家の食事はまるで西洋風の、源義にとっては珍しいものであった。カリカリに焼いたトーストと目玉焼き、そして濃く入れた紅茶が出る。朝からトーストや卵を食べることは、ご飯党の源義にとっては、あまりいただけなかったが、紅茶だけは助かった。もう、気を抜くとその場で寝ころがってしまいそうなほど、眠たかったからである。 「研究もいいけど、少し体を大切にしろよな」  中山は心配そうに忠告した。源義はうなずいて、 「ありがとう。とにかく、これから大学へ行くよ」  もう八時を回っていた。九時になれば、朝の早い折口は、大学に出勤してくる。源義は、この源氏物語を折口に差しだすことを楽しみにしていた。どんなによろこぶだろうか。こんなことは、めったにないのである。いや、おそらくこれから源義が学究生活に入るとしても、こんな素晴らしい発見をするということは、生涯二度とないかも知れないのだ。源義は、弾む心で中山家を出た。  ここから、國學院までは歩いて行こうと思えば行けるが、さすがに疲れていたので、源義は国電の目黒駅を目指した。源義は、興奮していたので、後ろから自動車がゆっくりしたスピードで近づいてくるのに、まったく気がつかなかった。ブレーキの音がしたので振り返ると、車から男が三人ほど降りるところだった。その先頭の男を見て、源義は顔色を変えた。 (あの男だ)  榊が死んだ坂田山で、夕暮れにちらりと垣間見た男である。源義は、本能的に危機を感じ、身をひるがえして走りだそうとした。 「待て」  男は、するどく声を掛けた。源義は、まるで蛇に睨《にら》まれた蛙のように足がすくんだ。 「角川源義だね」  男は、近づいてきて言った。源義が、返事もせず、相手を見ていると、 「ちょっと、本部まで来てもらおう」  と、都合も聞かずにいきなり言った。 「本部?」  源義は不審に思った。警察の人間なら、署に来いというはずである。 「あなたは、どなたです?」 「来ればわかる」  源義は抗議しようとしたが、いきなり二人の男に両脇《りようわき》を抱え込まれてしまった。これでは身動きがとれない。 「おとなしくついてくるんだ」  その二人の上司らしい男は言った。 「あなたたちは何ですか、いったい。物盗りですか、それとも——」  物盗りというところで、一同はどっと笑った。指揮をとっている男は、 「我々はやましいところのある者ではない。軍の者だ」 「軍?」  源義は、驚いて顔をあげた。 「そうだ。おとなしくついてこい。神妙にしておれば、なにも心配することはない」  源義は車に連れ込まれた。車は都心のほうに向かったが、麻布のあたりにさしかかると急に裏道に入り、目立たない建物の前に着いた。しかし、入口には確かに歩哨《ほしよう》が立っており、男が車の中から顔を覗《のぞ》かせると、ぱっと敬礼をした。男のほうも、軽く答礼で受けた。軍人というのは、どうやら嘘ではないらしい。源義は、そのまま殺風景な取調室に連れ込まれた。書記が席に着いていたが、その男も軍服を着ていた。 「説明してください。ここはいったいどこで、あなたはいったい誰なんですか」  それを聞くと、男はにやりと笑って、 「わしは陸軍憲兵大尉、菊地一正だ。ここは憲兵隊が、特別な取調べをする時に使う極秘の建物だ。普段は休憩所ということになっている」 「憲兵隊」  源義は絶句した。この世の中で憲兵ほど恐れられている人間が、他にいるだろうか。特高警察も怖いことは怖いが、憲兵の不気味さに比べれば、その比ではない。 「じゃあ、大尉さん。その憲兵隊がいったい、僕に何の用事なんです?」 「わかっているだろう。お前の友人、榊増夫のことだ」  大尉はそう言うと、源義の向かい側の椅子《いす》に座り、 「お前が、榊増夫の友人だったことは、調べがついておる。そして昨日、お前は榊増夫が忘れ物のかたちで、お前に託した書類を受け取ったな」  源義ははっとした。どうしてわかったんだろう、という疑問が表情に出たのだろう。菊地はせせら笑って、 「お前の行動なら、いつでも把握できる。お前が昨日、仏蘭西軒に行ったことも、そのあと、タクシーに乗って、こざかしく我々をまこうとしたこともだ。だがな、まくのなら、同じタクシーで最終目的地の前まで行かないことだ」 (そうか)  源義はわかった。おそらく、あのタクシーのナンバーを憲兵隊は控えておいて、後で運転手から最終的にどこに行ったのかを、問いただしたに違いない。自分もうかつだった。そんなことは、予想できることだったのだ。もし、本当に尾行をまこうとするならば、中山の家から少し離れたところで、車を捨て、そこから歩いていけばよかったのだ。そうすれば、尾行をまくこともできただろう。 「とにかく、お前が榊から預かったものがあるはずだ。それを出せ」 「でも」  源義は抗議した。 「それは、スパイとは何の関係もないことです。ただの写本なんですから」 「写本?」 「そうです。源氏物語の写本です。言っときますが、学問的価値は非常に高い、古写本です」 「わしはそれを出せと言っておるんだ。出しなさい」  菊地は一喝した。源義はびくっとなって立ち上がり、置いてあった例の鞄を差しだした。 「これか」  鞄を開けると、中に源氏物語が入っていた。菊地はそれをぱらぱらと捲《めく》ってみたが、 「何が書いてあるか、よくわからんな。これは確かに源氏物語か」 「はい、そうです。間違いなく、中身は源氏物語です。ただ申し上げたように、それは非常に古い本で、しかもおそらく日本で最も古い、源氏物語の写本ではないかと思われます。国宝級の貴重なものですから、そんなに乱暴に扱わないでください」 「国宝級だと? では、なぜそれを榊が持っておったんだ」  源義は答えをためらったが、隠しても隠しきれるものではないと考え、敢《あ》えて言った。 「それは貴宮家の蔵にあったものです」 「貴宮。ああ、榊の心中相手か」 「一応、心中だと言われていますけれども」  源義はうっかり言ってしまった。そこで菊地の顔色が変わった。 「何? お前はあれを心中ではないと言うのか」 「いえ、それはその——」 「はっきり言え。心中ではないと言うのか」 「いえ。そうだと思います」  源義は、その相手の勢いに気圧《けお》されて、うつむきがちに言ってしまった。悔しいが、正面切って反駁《はんばく》するだけの材料はない。菊地はうなずいて、 「そうだろう。そうだろう。本人も、道行をするというような内容の紙片を握っていたということではないか」  大尉は言った。源義は度胸を据えて、その顔を見ると、 「よくご存じですね」  と、言った。 「当然だ。調べたからな」  と、菊地は煙草を取り出して火をつけた。その仕草になんとなく、何かを隠しているようなものを、源義は感じた。 「あの後、坂田山で、お会いしましたね」  源義は言った。 「何、坂田山? ああ、あの心中現場か。いや、心当たりはないがな」 「確かにあなたの姿を見かけましたよ、僕は。ちょうど夕暮れ時でしたけれども」 「何を馬鹿なことを言っておるんだ。それよりも、質問しておるのはわしだぞ。答えなさい。他に預かったものはないのか」 「ありません」 「わかった。じゃあ、今日のところは帰してやろう。だが、忘れるな。スパイ罪は重罪だ。場合によって死刑もありうるんだぞ。決して脅しではないからな」 「わかりました」  源義は、一応頭を下げたが、 「それで、その源氏物語をいつ返してくれるんです?」 「返す? よく調べてからだ。ひょっとしたら、暗号で秘密通信でも書かれておるかも知れんからな」 「とにかくそれは、国宝級の大切な古写本なんです。決して乱暴に取り扱わないでくださいね」  源義は念を押した。それから、源義は憲兵隊の執拗《しつよう》な身体検査を受け、帰宅を許された。さすがの源義も、もう折口のところに行く気力もなかった。下宿に戻ると、布団に入り、泥のように眠りこけた。      四  源義は、そのまま翌日の昼頃まで寝込んでしまった。 「角川さん、目が腐るよ」  と、下宿のおばさんに言われ、ようやく源義は体を起こすと、眠い目を擦《こす》りながら顔を洗い、大学に向かった。校門をくぐるのは気が重かった。何といっても貴宮本『源氏物語』という国宝級の、いやむしろ日本の国文学史上、画期的な発見である本をこの手に入れながら無くしてしまったのだから。源義は重い足取りで、折口研究室に行くと、講義を終わって帰ってきた師にそのことを話した。折口も残念そうな顔をした。 「そうか。それは本当にもったいないことをしたな」 「先生、一応その内容をノートにとっておきました」  と、源義はその中身を説明した。つまり十七巻からなる成功物語として、一つの宇宙を作っている源氏物語のことをである。 「それは、納得できる考え方だ」  折口はうなずいた。源義は、気になっていた最後の書き込みについて、折口の見解を求めた。『入道相国、是書を手本と為す』とはいったいどういうことなのか。 「案外、君の推測は当たっているのかも知れない」  と、折口はそれも認めた。 「やはり、清盛ですか」 「そう。清盛と断定していいのかどうかは、僕にはわからないんだが、それにしても源氏物語というのは、そもそも僕が考えるに、誰も気がついていないが大きな矛盾があるんだよ」 「えっ、どんなことですか?」  源義は興味を持って、尋ねた。 「考えてもごらん。これは、君の言うとおり成功物語だ。いわば、『太閤記《たいこうき》』における豊臣秀吉のような、まあ出世|譚《たん》なわけだよ。功成り名遂げ、子孫も繁栄するという立身出世譚と言ってもいいだろう。光源氏は確かに皇子だが、一度臣籍に降下してしまったんだから、准太上天皇がやはりその到達しうる最高の位階《いかい》であると言えるだろう。太政大臣では臣下の最高位だが、あくまで臣下だからね」 「そうですね」  源義は、折口の言わんとしているところがまだわからなかったが、とりあえず相槌《あいづち》をうった。 「じゃあ君に聞くが、この長大な物語において、光源氏のライバルと看做《みな》されている右大臣家だが、これは誰だと思うかね?」 「それは、藤原氏でしょう」  源義は即答した。折口もうなずいた。 「そうだ。それ以外には考えられない。だが、考えてもごらん。この物語が書かれたとされる平安時代は、藤原氏の全盛時代じゃないか。『平家にあらずんば、人にあらず』の前に、藤原氏にあらずんば、人にあらずの時代があったんだ。そのことは、君も知っているだろう。それなのにどうして、そういう藤原氏全盛の文化の中から、藤原氏が負ける物語が生まれてくるんだ?」  源義は呆気《あつけ》にとられた。目から鱗《うろこ》がおちるとは、このことであった。確かにそのことは今まで自分も気がつきもしなかったし、学者も指摘していないのである。平安時代は藤原道長を頂点とした摂関政治の時代であった。藤原氏が摂政、関白となり、自分の娘を天皇家に嫁にやり、生まれた子供を天皇にする。そして、その幼少の天皇が子供の時には摂政となり、長じると関白となって実権を握る。この繰り返しなのである。他の氏族の付け入る隙はない。だからこそ、藤原道長は『この世をば、我が世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思へば』という傲岸不遜《ごうがんふそん》な歌を歌ったのである。ところが、源氏物語は通説では、この時代に生まれたものだとされている。藤原道長の娘であり、中宮でもある彰子《しようし》付きの女官であった、紫式部が書いたことになっている。そして、『紫式部日記』などの資料によれば、道長はこれを愛読していたとも伝えられている。しかし考えてみれば、それは折口の言うように極めておかしな話なのだ。なぜなら、この中に出てくる源氏物語で「悪役」と称して出てくる右大臣家は、誰がどうみても藤原氏に他ならない。光源氏は源氏であって、藤原氏ではない。となると、これは源氏が藤原氏に勝つ物語ではないか。それをどうして、藤原氏が応援することがありうるのだろうか。 「ひょっとすると、先生は——」  源義は、そこではっと気がついて言った。 「作者も紫式部じゃない、とお考えなんですか?」 「その可能性はあると思っている」  折口は、はっきりと認めた。 「紫式部は、藤原道長に極めて近いところにいた人間だ。そういう人間が、この藤原氏にとって不遜な物語を書くということは、常識では考えられないんじゃないかな。だから、僕は『紫式部日記』というのも、後世の創作だと思うし、藤原道長や周辺の藤原氏たちが、この源氏物語を愛読したというのも、後世に創作された伝説だと思っている。彼らが源氏物語を愛読するというのは、人間の自然の感情に反しているからね」 「おっしゃるとおりです」  源義は頬《ほお》を紅潮させ、興奮して言った。 「先生のその源氏物語論は、是非発表なさるべきです」 「君の持っていたという、その貴宮本があればよかったんだがね」  折口は残念そうに言った。源義はそれを聞くと、今度はうなだれてしまった。確かにそういう新説を発表するのには、物的証拠があるのがいちばんいいのである。もちろん、学説の発表だから、最初は仮説であって構わないわけであるが、大胆で斬新でこれまでの通説を覆すようなことを言うためには、やはり証拠となるものが何かあったほうがいいのである。その何かを、源義は自分の失策で失ってしまったのである。 (せっかく榊が、うまく僕のところに届くように配慮してくれたのに)  源義は、決心して言った。 「先生。お願いがあります」 「何だね?」  源義の思い詰めたような表情に、折口は驚いて言った。 「卒論の製作もほぼ目処が着きましたし、ここで僕はどうしても行っておきたいところがあるんです」 「京都、いや吉野か。三之公村だね」 「はい」 「君は貴宮本を失ったことを、自分の責任だと思い詰め過ぎているんじゃないかね。それを挽回《ばんかい》しようとしているなら——」 「いや、違います。実は、榊が亡くなった時のことですが、三之公村の人が来ていて、僕に話があるから是非会いたいと言ったんです」 「ほう。それは、向こうのほうから言ったのかね?」 「ええ。僕と同じぐらいの歳の人で、確か川上誠と言いました。三之公村の村民総代の孫です。彼なら、何か秘密を話してくれそうな気がするんです。先生、吉野に行かせてください」  源義は深く頭をさげた。 「それは、君は僕の使用人ではないからね。行きたいと言うなら止めはしないし、止める権利もない。だが、一言忠告するなら、少し危険じゃないかな」 「危険ですか?」 「そうだ。これはただの私の勘なんだが、何か今度の事件には非常に大きな、闇《やみ》の力が動いているような気がするんだ。君も、それを感じないわけじゃないだろう」 「ええ。確かに」  源義は唇を噛《か》んだ。特高とか憲兵隊とか、妙なものが動き過ぎる。それは事実だ。 「でも僕はやはり、貴宮家の秘密を知りたいんです。貴宮家の秘密には、きっとこの事件の全体を見通す鍵があるはずです」 「わかった。そこまで言うなら、やってみたまえ。ただし、絶対に危ないことはしないように。約束できるかね? もし君に万一のことがあったりすれば、親御さんが嘆き悲しむよ」 「いえ。大丈夫です。じゃあ、先生、僕は明日さっそく、三之公村に行ってきます」  源義は一礼して出ていこうとした。 「待ちたまえ」  折口は声をかけて、源義を呼び止めた。そして財布から、いくばくかの金を出すと、わざわざ目の前で封筒に入れて、源義に差しだした。 「これは、餞別《せんべつ》だ。交通費の足しにでもしてくれたまえ」 「いえ、先生、そんなことをしていただいては」 「いいじゃないか。これは、学問の調査でもあるんだから」  折口は言った。源義はそれを押しいただいて、 「ありがとうございます。きっといい知らせを持ってきます」  と、言って折口研究室を出た。  翌朝、一番の急行に乗って、源義は東海道を西に向かった。昨日、折口の研究室を出るとすぐ、源義は三之公村の川上誠に手紙を出した。とにかく会いたい、という内容の手紙だ。返信先は勝手ながら、榊の実家を指定した。京都では、他に信頼できる知り合いがいないからだ。また、長い旅を続け、源義は夕方にようやく京都にたどり着いた。源義はまず、榊の実家に挨拶《あいさつ》に行った。まだ、骨となって墓には納められていない榊の遺骨に、焼香する用事もあった。だが、源義は増夫の父、喜左衛門《きざえもん》に門前払いを食らわされた。喜左衛門は、額に青筋をたてて、こう言ったのだ。 「お前のような男と付き合ったから、増夫は死を選ぶ羽目になったのだ。お前の焼香など受ける筋合いはない。とっとと帰れ」  母の貞子や妹の百合子がとりなしたが、喜左衛門の態度は頑なだった。源義は、仕方なく踵《きびす》を返した。足音がするので振り返ると、自分を追ってきたのは百合子だった。 「いや。少しは落ちつかれましたか」  源義は、我ながら陳腐な言葉だと思いながらも、そう言わざるをえなかった。 「はい。申し訳ございません」  百合子は頭を下げた。 「息子が急死したので動転しているんです。何といっても兄は、父にとってはただ一人授かった跡継ぎなんですから」 「その跡継ぎを死に至らしめるようなことをしたのは、僕が原因かも知れませんよ」  源義は自嘲《じちよう》気味に言った。 「そんなことはありませんよ」 「いや。そうかも知れない。だって、僕は彼を三之公村に連れていき、貴宮多鶴子に会わせてしまったんだから」 「あの、角川さん」 「何でしょう?」 「今夜、お泊まりになるところはありますの?」 「いや、特に決めてませんが。寺の宿坊にもぐり込むか、それとも駅前で安い旅館を探すか。あ、そうそう。一つ、お願いがあるんです」  源義は、努めて明るい表情で言った。 「何ですか?」 「実は、三之公村の川上誠という人から、僕宛てにお宅に連絡が来るはずなんですよ。それを取っておいていただけませんか」 「その三之公村の、それも貴宮家というところの秘密に関連することですか?」  百合子は、さすがに頭の回転が速かった。 「その通りです」 「それはわかりました。でも、角川さんはどちらに?」 「そうですね。僕の宿はさてと——」  源義は途方に暮れた。京都は旅館の多い町だが、それぞれ馴染《なじ》み客を持っており、一見《いちげん》の客はなかなか泊めてくれない。一見さんには冷たいのが、京都の伝統なのである。 「それでしたら、うちの知り合いの宿屋が、この近くにあります。そちらに、お泊まりになったら?」 「そうですか。それはありがたいな」  百合子が案内してくれたのは、伏見の町の入口近くにある、商人宿だった。畳のすえたような臭気が少し気になったが、それでも概して清潔だったので、源義は礼を言って、百合子を帰した。  折口教授からもらった軍資金が少しあるとはいうものの、宿屋に泊まることは、実は計算に入っていなかった。あわよくば伏見の百合子の家に泊まろうと思っていたのが、思惑《おもわく》が外れたのである。源義がその大黒屋という宿に泊まって、二日目の午後、百合子からの使いが来た。それは、造り酒屋のほうで働いている青年らしかった。その差しだした封書は、川上誠からのものである。明後日に京都で会わないか、という内容の手紙であった。 「ありがとう」  それから一日過ぎるのが、源義にはとてもまどろこしかった。持ってきた源氏物語で少し研究をしてみようかとも思うのだが、この商人宿はそんな雰囲気ではない。入れ代わりたち代わり、人が出ていくし、昼間はしいんとしている。夜は、遅くまで誰も帰って来ず、ようやく客が帰ってきたかと思うと、すぐ店じまいをしてしまう。学問をやるには、最悪の環境である。源義はじりじりして、約束の日を待った。  川上が指定してきたのは、京都東山の三十三間堂の近くにある、小料理屋であった。源義は、そこでお昼に川上と待ち合わせた。定刻を少し遅れて、川上誠はやってきた。 「離れがとってありますから、お昼でもどうですか?」  川上の誘いに、源義は離れのほうに移動した。 「この間は、大変失礼しました」  席に着くと、川上は源義に対して頭を下げた。 「いえ。あれは特別なことですから、僕も気にはしてません。それよりも、川上さん」  と、源義は身を乗り出して、 「貴宮家の秘密について、教えてくれませんか? あれはいったいどんな家で、あの三之公村というのはどんな村かということを」 「ええ」  川上はうなずいて、 「お気づきかも知れませんが、貴宮家というのは南朝、今は吉野朝と教科書では言っているようですが、その吉野朝の直系の子孫なんです」 「と言うことは、つまり後醍醐天皇の?」 「そうです」 「いや。やっぱりそうだったんですか」  源義は大きく溜め息をついた。  今の教科書では、実は南朝こと吉野朝を正統の天皇としているのである。と言うのは、後醍醐天皇は最後まで三種の神器を握り、天皇の位を自分の息子である後村上天皇に譲ったからである。それに引きかえ、足利尊氏が京都でたてた北朝の天皇は、偽帝という扱いで天皇の歴代系図にも入っていない。しかしそのうち、南朝は徐々に力を失っていき、三代将軍足利義満の時に義満の陥穽《かんせい》により、南北朝統一の話し合いがなされ、合意に達する。それは南朝の天皇から、北朝の天皇に対して正式に位を譲り、三種の神器も渡す。その代わりに、次の天皇は南朝側から出すというものであった。しかし、足利義満は最初から三種の神器を奪うのが目的で、この約束自体を反故《ほご》にするつもりであった。憤激した後亀山天皇は京都を脱出し、その子孫である小倉宮が幾度も反乱を起こしたのだが、一度は三種の神器のうち玉だけを奪い返した。しかし、最終的にこの子孫の自天王の時代に、幕府の意を体した赤松家の遺臣によって自天王は殺され、神器の玉も奪い取られ、ここに完全に南朝は滅びたとされている。源義はそのことをもう一度確認した。 「それが、表向きの歴史の話です」  と、川上は言った。 「と言うことは、自天王にも子孫がいたんですか?」 「そうです。ご子孫がおられました。そのお方を我々は、南帝王様とお呼びしてます」 「南帝王?」 「そうです」 「そうか。それが『なんておう』様ですか。それが貴宮家の第一代なんですね」 「そのとおりです。足利家のあの大逆無道な義満は、真の天皇家をたばかり、三種の神器を奪いました。それ以後、天皇家はまた京都に帰ったということになっています。しかし、あれは義満が破約しているのですから、やっぱり真の天皇家は、この吉野の山の中にあったと考えるのが妥当です。現に今の歴史学会も、三種の神器の所有を以て真の皇位かそうではないかということを判断しているではありませんか」 「確か、一度は北朝に渡した三種の神器のうちの玉を、あなたたちのご先祖は奪い返したんでしたね?」 「いいえ、正確に言えば違います」  源義は訝《いぶか》しげに川上を見た。 「われわれの先祖は京都御所に入り、玉のみならずすべての三種の神器を奪い返し、その神器はそのまま自天王様のもとにあったのです」 「本当ですか? それがまた長禄《ちようろく》の変の時、赤松の遺臣に奪い返された?」 「奪い返されてはいません」  川上は首を振った。 「えっ?」  源義は驚いた。それは歴史の事実とは違うことだ。 「角川さん、信じてくれないかも知れないが、実はこれは本当のことなんです。三種の神器は、ついこの間まで貴宮家の蔵の中にあったんです」 「ええっ」  源義は、今度こそ耳を疑った。そんな馬鹿なことがあるだろうか。三種の神器を以て天皇の正統性の象徴とするならば、その三種の神器を持っていない、今の天皇家は——。 「おわかりでしょう。それがどんなに大変なことか。我々筋目は、そのことを固く秘し、いつの日か京へ返り咲くことを夢見て、この五百年の間、ひたすら沈黙していたのです」 「川上さん、その筋目というのはいったい?」 「正統なる天皇家に叛旗《はんき》を翻し、人心がことごとく足利になびく中、最後まで忠節を貫き通した、いわば真の天皇家の親衛隊とも言える人々。それを我々は誇りをもって、筋目と呼んでいるのです。我々はその筋目の子孫です」 「では、あの儀式はやはり——」  と、源義は思わず自分が、その秘密の儀式を盗み見たことを、口にしてしまった。だが、川上は笑って咎《とが》めなかった。 「ご存じでしたか。あれが年に一回、南帝王様の命日に行われる筋目の儀式だったのです。それをあなたはご覧になったようですね」 「年に一回の儀式なんですか」 「そうです。ひょっとしたら、お姫《ひい》様はあなたたちにそれを見せたくて、わざわざ招いたのかも知れない。もっとも、あなたのいらっしゃった日が、儀式の日だったということは、偶然なのかも知れませんが」 「そうですね。それにしても、貴重な偶然でした」  源義は目を閉じて、あの光景を思い浮かべていた。師の折口の推測は正しかったのだ。葉を口に加えるということは、貴宮家こそ真の天皇家であるということを、固く秘すという、口外せぬということであろう。そして、最後に一言言った、誠忠かくのごとしというのは、その真の天皇家である貴宮家に最後まで忠節を尽くすということであろう。そこで、源義は改めてとんでもないことに気がついた。貴宮家の直系の子孫である多鶴子は、もう既に死んでしまったのだ。 「そうです。貴宮家の直系は絶えました。正確に申せば、ご当主の多鶴子様のお祖父《じい》さまにあたります、貴宮|尊仁《たかひと》様が未だご存命でおられますが、残念ながら明日をも知れぬお命であり、子孫のできる見込みはございません。ご隠居さまがお亡くなりになれば、名実共に南帝王家は、いや、真の天皇家は滅ぶことになります」  源義は、自分が今、現代の京都にいることが信じられなかった。これはいったい、どういうことなのだろう。五百年も昔の話が、そして日本の歴史の中で最大級の秘密が、ここに語られようとしているのだ。 「じゃあ、せめてその三種の神器を公開したらどうです?」  と言いかけて、源義は恥じた。そんなことができるはずがない。しようとしただけで、おそらく憲兵隊や特高警察は、それを不敬罪という名のもとに、完璧《かんぺき》に葬ってしまうに違いない。 「それに、角川さん。残念ながら三種の神器はもうないのですよ。貴宮家の蔵に」 「どうしてです?」 「お姫様が、持ち出したんです」 「つまりそれは、榊君との駆け落ちの時、ということですか?」 「そうなんです。角川さん」  と、川上は居住まいを正し、 「私は、これまで五百年間、漏らしてはいけないと言われていた大事な秘密を、あなたにお話ししました。あなたも話してください。どうして、お姫様がそんなことをしなければならなかったか、何か心当たりはありませんか?」 「それは、どうして榊君がそんなことをさせたかということですか?」 「ええ。そうだと思います。お姫様のご一存で、三種の神器を持ち出すということは考えられないのです。おそらく、榊さんの説得あってのことだと思います。しかし、榊さんは、いったいそれをどうするつもりだったんでしょう? これを持ち出したところで、発表することなどできないことは、目に見えてます。また、売れるものでもありません。それはおわかりでしょう?」  源義はうなずいた。これは本当の三種の神器ですなどと言って、骨董《こつとう》屋に持ち込んだりしたら、骨董屋は目を回してしまうだろう。狂人扱いされるか、警察に通報されるか、そのいずれかである。いずれにしても、ろくなことにならないに違いない。あまりにものが重大過ぎて、普通の人では扱えないのだ。 「これは、まったく僕の想像なんですけれども」  と、源義はひとまず断って、 「ひょっとしたら、榊はこの国を捨てる気だったのかも知れないな」 「この国を捨てるというのは、どういうことですか」 「つまり、別の国に行くということですよ」 「アメリカですか」 「ええ。彼はアメリカのスパイだと、特高は言っています。僕は今ひとつ、信じられないところがあるんだけれども、しかし少なくとも彼がアメリカの人間と非常に親しくしていたことは事実だし、何らかの関係があったことも事実なんです。スパイ説は納得できないけれども、それは認めざるをえません」 「でも、角川さん。もしそうだとして、三種の神器をアメリカに持っていったとして、何か役に立つことがあるんでしょうか?」  そう言われてみると、源義も言葉に詰まった。源義が返事をできずにいると、川上は、 「しかし、考えられることが、もう一つありますね。大変なことですが」 「どういうことです?」 「お姫様と榊さんが三種の神器をアメリカに運ぼうとしていたとして、そのことが憲兵隊や特高警察に気づかれていたとすると、あの心中は本当に心中なんでしょうか。殺されたんじゃないでしょうか」  川上の言葉に、源義はうなずいた。そう考えられるふしは、確かにあると前から思っていた。  いや、考えられるふしがあるどころか、むしろ口を塞《ふさ》がれた殺人であると考えたほうが妥当ではないか。 「そういえば、遺書があったそうですね」  川上は言った。 「ええ」  源義は我に返った。 「いえ。あれは遺書なんていうものじゃありませんよ。僕は、何か別のものだと思っているんです」  源義は言った。 「別のもの?」 「ええ」 「でも、道行とかいう言葉が書いてあったんだそうですね」 「それはその通りですが、あれは僕はどこか別の文章から切り取ってきたんじゃないかという気がしているんです」  源義は、これまで考えてきたことを初めて川上に打ち明けた。 「それは、どういうことですか?」 「いや、簡単ですよ。あれは、ノートの切れっ端でした。それも引きちぎったというような感じじゃなくて、鋭利な刃物で四隅を切り取ったというような恰好《かつこう》でした。だから、僕はこう思うんです。あれは、彼がノートの中に書いていた一連の文章の中の一区切りではないか。それを見た人間が、ちょうどそれは遺書にふさわしいと。つまり心中に見せかけることができると、切り取ったんじゃないかということなんです」 「そうですか」  川上は、先ほどから出された料理にも手を付けずに喋《しやべ》り続けていたが、今度はじっと考えこむと、しばらくして、 「角川さん、あそこに書いてあったのは、『道行では仕方がない』という言葉でしたよね」 「そうです」 「あなたの推理が正しいとすると、『道行では仕方がない』というのは、何か別のことを言ったんだということになりますよね。心中とは関係ないことを、何かの文章で言ったものを切り取ったということになりますよね、文字通り」 「ええ、そうです」 「じゃあ、その元の文章って、いったいどんなことが書いてあったんでしょう。普通の文章に『道行では仕方がない』なんて言葉が出てきますか?」  源義はぐっと詰まった。確かにそうだ。彼の推理の最大の弱点とはそれなのだ。 「——そうですね。おっしゃる通りです。僕にも、そこのところは残念ながらわからないんです。でも、必ず解いてみせますよ」  源義は、自信はなかったが、敢《あ》えてそう言った。 「わかりました。僕も及ばずながら、協力しましょう。ところで、角川さん。少し、飯を食いませんか? 腹が減ってきた」 「そうですね」  二人はそれから、膳のものを片づけた。ニシンや漬物や京の名物が何種類か入っていて、なかなか味わいのある食事であった。腹を満たしてしまって落ちつくと、今度は源義のほうから質問した。 「ところで、僕は気になって仕方がないことがあるんですがね」 「何でしょう?」 「例の源氏物語のことなんです」  と、源義はノートを出して、 「実は、あの源氏物語の最後に、こんな書き込みがあったんです」  と、例の『入道相国是書為手本』を書いた。 「書き込みなんですよ。落書きじゃないですね。あくまで、これはある人間が、意志を持って書き込んだもので、しかもよほど教養あるらしい人間の筆跡でした。これは何を意味しているんでしょう?」  川上は、その書き込みをじっと見ていた。 「入道相国、是書を手本と為すということですね」 「そうです」  源義はうなずいた。 「入道相国、相国というのは大臣以上の、それも左右両大臣以上のことを指すんでしたね」 「よくご存じですね」  源義は感心した。 「ええ。僕は歴史には詳しいんです。特に室町時代の歴史にはね」  川上が笑った。そう言われてみれば、そうかも知れなかった。彼らは五百年も昔から、自分たちの筋目を守ってきている人間なのである。歴史に詳しいのは当然のことだろう。川上が、そのノートに書かれた九文字を、じっと見つめながら長い間考えているので、源義はついに痺《しび》れを切らして言った。 「それが、源氏物語の最後に書き込まれてあったことは、ご存じでしたか?」 「いえ。残念ながら、それは知りませんでした。私は、当の源氏物語というものを、実見《じつけん》したことはありません。ただ、それが開かずの蔵の中にあることは知っていましたし、祖父から話を聞いたこともあります」  源義は、それを聞いて身を乗り出して、 「では、これがどういう意味か、おわかりになりますか?」 「わかる、と思います」  川上は、慎重な言葉遣いで言った。 「じゃあ、教えてください。いったい、これはどういう意味なんです?」  熱くなる源義に対して、川上はあくまで冷静に、 「角川さん。また明日、お会いすることができますか?」 「ええ。それはもう一日、滞在を延ばせばいいんですから」 「じゃあ、明日の朝、そうですね、十時に北山の金閣寺まで来てくれますか?」 「金閣寺ですって?」 「ええ」 「実はその近くに金閣寺の子院で、法成寺《ほうじようじ》というお寺があります。そこへご案内したいんです。ただ、そこはわかりにくい場所ですから、金閣の前でお会いしましょう。朝七時には山門が開くはずですから」 「明日の朝、十時ですか」  源義は、ちょっと嫌な顔をした。なぜ明日まで待たなければならないのか。川上は、それを敏感に察して、 「明日、証拠をお目にかけながらお話をしたいんです」 「証拠ですか?」  源義は首をひねった。証拠とは、いったい何のことだろう。 「たぶん、いきなりお話ししても信じてくださらないでしょう。証拠をご覧になれば、はっきりわかると思います。そこの法成寺の住持・恵海《けいかい》さんは、我ら筋目のことを理解してくださっている方なのです。今晩でも連絡しておきますから」 「わかりました。明日十時、金閣の前ですね」  源義はうなずいた。      五  源義は、翌朝、朝七時に起きると待ちきれない思いで食事をかき込み、時間があるので京都駅からわざわざ山陰本線に乗り、一区間乗って二条駅で降り、西ノ京|界隈《かいわい》から歩いて金閣へ向かった。それでも時間が余ったので、近くの等持院《とうじいん》に寄り、坊さんに頼んで庫裏《くり》を見せてもらった。等持院は、室町将軍代々の菩提《ぼだい》寺である。幕末から明治維新以降、室町幕府というのは、後醍醐天皇の南朝を圧迫した悪人とされており、訪ねる者は少ない。幕末の動乱の時期は、この等持院にあった足利尊氏らの木造の首が盗られ、逆賊として三条大橋に「さらし首」になったほどなのである。源義はもちろん、その故事は知っていた。いわば忠臣蔵における吉良《きら》のように、極めて評判の悪い悪役の寺なのだが、そういった破れた者、悪とされた者に対して、源義は深い愛情と同情の念を持っていたのである。訪ねる者もめったにないのか、等持院の住持は親切に源義を招き入れ、茶をご馳走《ちそう》してくれた。 「ここもな、もう少し皆が訪れてくれるとええんやが——」 「意外にと言っては失礼ですけれども、いいお寺なので驚きました」  源義は、思わず言ってしまった。はははと住職は笑って、 「庭がええやろ。ここは、室町将軍代々の御霊屋《おたまや》も見事や。ただな。尊氏はんは逆賊やさかいにな」 「逆賊ですか?」 「そや。逆賊や。天皇様に逆らったというのではどうしようもないわ。だが、尊氏はんはちょっと気の毒やな」 「どうしてですか? やっぱり、後醍醐天皇があまりにわがままが過ぎたということですか?」 「ほう。学生さん。よく歴史、勉強しとるのう。それもある。だが、それだけやない。他にもっと逆賊の名を浴びせられてもおかしくないお方が、実は室町将軍の中にはおるんやがな」 「それはどなたですか?」  源義が聞くと、住職ははっとしたように、 「いや。これは言うてはならんことやった。気にせんといてや。ついつい話してしもうた。忘れてくだされ」  住職は笑って、それより後、源義がいくら問い詰めてもそのことを話そうとしなかった。 (尊氏より逆賊の足利将軍って、いったい誰だろう?)  逆賊と言うからには、天皇家に対して相当悪いことをした人間のはずである。しかし、歴史の教科書を見ても、後醍醐天皇を圧迫して、朝廷から実権を奪い、幕府をたてた尊氏のことは悪く書いてあっても、それ以外の将軍についてはそんなに悪く書いてない。 (ひょっとして、あいつかな)  と、思ったのは、長禄《ちようろく》の変の時の将軍である。つまり、あの時の将軍は、かつて将軍を暗殺した赤松家の遺臣に因果を含め、自天王を殺して神器を取り戻してくれば罪を許してやるとけしかけて、その結果、自天王は殺されてしまったのだから、確かに大逆の臣と言えないこともない。しかしそれは、どの将軍だったか、源義は明確には覚えてないのである。義教《よしのり》将軍を暗殺した赤松の遺臣を手先に使ったのだから、それより後の将軍ということになるが、足利将軍は十五代いるものの、徳川家の将軍と違って、後半は非常に影が薄い。有名なのは、金閣にならって銀閣を作った足利義政ぐらいのものである。後は、織田信長の傀儡《かいらい》となって、室町将軍となり、後に信長と対立して室町幕府の幕を引いた義昭ぐらいのものだろうか。どうも足利将軍というのは、日本人の歴史の常識の中にあまり入ってきていない。源義は満たされぬ思いで、等持院を出た。  そこから歩いてすぐのところに、金閣はある。源義は、寺の庫裏《くり》に一言断ると、中に入った。山門からは少し離れている。なだらかな坂を登り、少し奥まったところに入ると視界が急に開け、回遊式の庭園があり、その中央の池のほとりに金閣は建っている。創建以来既に五百年以上経過しているため、金箔《きんぱく》も色あせ、黄金の輝きは既に失われているが、源義はこれぐらいのほうが何か渋みがあって好きだった。金閣は雪の頃にくるといいと言う。あたり一面が真っ白く染まった中で、金閣だけが輝きを増すと言う。ただ、秋の金閣も悪くはなかった。紅葉があたり一面に拡がるからである。今はまだ、紅葉には少し早く、ちょうど季節の境目で、あまり拝観にはよくない時期とは言えた。源義は、池を挟んで金閣を向こう岸に見る眺めのよい場所で、そこに作られた竹製のベンチに腰を下ろした。九時三十分を少し回っていた。ちょっと早過ぎたが、もう少しで川上は来るはずだ。源義は金閣を見るのは初めてだった。こうして、池を間において金閣と向かい合っていると、古い昔の人間と対話しているような不思議な気分になる。 (これを建てたのは、足利義満だったな)  そう言えば義満がいた、と源義は思った。逆賊将軍の領袖《りようしゆう》である。  南北朝の南朝側から言えば、仇敵《きゆうてき》とも言えるのが義満である。義満はそれまで南北に争っていた朝廷を一つにするために、南朝に偽りの講和を持ちかけ、北朝の天皇に位を譲らせた後、その次は南朝から天皇を出すという約束を反故《ほご》にしてしまった、とんでもない男である。しかし、そのことでそれ以後、南北朝の動乱に終止符が打たれ、日本が平和な国家になったのもまぎれもない事実だ。ちなみにこのことを、義満による南北朝の合一と言って、統一と言わないのは、臣下が皇統を一本化するなどという言い方は不遜《ふそん》であるとの考えから合一と言うのである。実は、そんなことはどちらでもいいことではないかと、源義は密かに思っていた。  それから一時間が過ぎた。誰も来なかった。だがその時、源義は不審には思わなかった。三十分ぐらい、約束に遅れてくることはたまにはあることだ。ところが、更に三十分たっても川上が現れなかったので、源義はさすがにおかしいと思った。一時間も遅刻するというのは、本来、あってはならないことのはずである。 (何か、調べものでもしているんだろうか)  その可能性はあった。川上は今日、源義に貴宮本『源氏物語』に書き込まれていた、あの謎《なぞ》の九文字の解明を教えてくれるという。そのために証拠を見せることができると言ったのだから、よほどその説明には自信があるのだろう。どんなことか一刻も早く聞きたいと、源義は思った。  更に一時間がたった。源義は、いったんは腹を立て、今度は心配になってきた。二時間も遅れるとは異常である。連絡もできないのだろうか。そのうち、何か事故に遭ったのではないかと心配になってきた。  更に一時間たった。源義は後悔した。なぜ、川上の宿泊先を聞いておかなかったのだろう。そこに問い合わせれば、少なくとも出たか出ないかぐらいはわかるはずではないか。源義は、ベンチにどっかりと腰を下ろして、長期戦の構えをとった。とにかく、会わずに帰るわけにはいかないのだ。  ところが、更に一時間たつと、源義の気分もさすがに鈍《にぶ》った。 (どうしよう。庫裏《くり》に手紙でもことづけて、いったん帰ろうか)  食事を朝から食べてないので、腹が鳴りだした。源義は我慢して、更にその場に居すわった。気がつくと、午後二時を回っている。もう四時間である。 (いくらなんでも、ないな)  源義は立ち上がった。その場を去ろうと考え、あと、一時間は待とうと思いなおした。ずっと座って尻《しり》が痛くなったので、立ち上がって伸びをし、金閣のほうをもう一度見つめた。三層建ての金閣の頂上には、鳳凰《ほうおう》の飾りものが置いてある。遠くから見るとまるで神輿《みこし》のようである。この回遊式庭園と金閣は、明らかにこの世の外にある理想の世界、つまり極楽浄土を夢見て造られたものであろう。極楽、死後の世界ということを考えてきて、源義は、ふと榊はどうなったのかと思った。あれは心中なのか。だとしたら、榊は今、どこにいるのだろう。天国なのか、地獄なのか。心中だとしたら、どちらに行くのだろう。源義はそう考えていて、ふと思い掛けぬ事実を見逃していることに、気がついた。 (そうだ。そんなはずはない。そんなはずはないんだ)  源義は、とんでもないことに気がついた。やはり、あれは心中ではなかったのだ。しかしそれならばなぜ、あんなことを書いた紙片が、榊の手に握られていたのか。誰かが切り取って、握らせたとしても元の文章はいったい何なのだろうか。 「『道行では仕方がない』って、どういう意味なんだ?」  源義は、誰に言うともなく呟《つぶや》いた。すると突然、背後からそれに呼応する声がした。 「それは、どういうことだい?」  源義は、驚いて振り返った。そして二度、驚いた。後ろに立っていたのは、陸軍の軍服を着た男だった。将校ではない。下士官である。階級章を見ると、どうやら伍長《ごちよう》らしい。中肉中背で背はそれほど高くなく、三十少し前に見えた。顔は不精髭《ぶしようひげ》の伸び放題。だが、なぜかどことなく親しみのある顔つきをしていた。源義はまず身構えた。このところ、軍服にはあまりいい印象は持っていない。 「あなたは、どなたです?」  源義は、切り口上で言った。その兵士は笑って、 「ごらんの通りの、通りすがりの者だよ」 「ここは、兵隊さんの来るようなところじゃないように思うけど」 「そうとも言えないさ。兵隊と言っても、もとは普通の市民だ。左官屋もいれば、洗濯屋もいれば、学者もいる。別にこういうところに興味を持つ人間がいたって、不思議じゃあるまい」  源義は、その言葉を聞いて少し警戒を解いた。その男の話し振りは、どちらかと言うと学生口調に近いものがあり、あのしゃちほこばった憲兵や職業軍人の口調とは違うものがあったからだ。 「じゃあ、あなたは学者ですか?」 「いや。学者じゃない。ただの風来坊だよ。少し前まで、大陸の連隊にいた。ところが、連隊が今度別のところに配置換えになることになったので、とりあえず一度内地に引き上げてきたということさ。今日は一日、外出許可をもらったんだ。そこで、久しぶりに命の洗濯をしようと、わざわざ大阪から京都へやってきたのさ」 「大阪の連隊なんですか?」 「そうさ。またも負けたか八連隊。日本最悪の部隊さ」  源義は、思わず笑った。 「でも、兵隊さん、変わっているなあ。普通、命の洗濯だったら映画を見に行くとか、おいしいものを食べに行くとか、そういったことをするでしょう。わざわざこんな、辛気臭いお寺に来るなんて」 「そういうことは、昔、さんざんしたのでね。最近は少し日本的なものに心を引かれるようになったんだ。不思議だな」  と言って、男は前に出て、金閣を眺め、また振り返ると、 「それにどうも嫌な予感がしてね。もう内地には戻ってこれなくなるんじゃないかという気がして、こういうものを見に来たんだよ」 「兵隊さん、今度はどこに行くんですか?」 「はは。君は学生だろう?」  いきなり男が言ったので、源義はうなずいた。 「そうです」 「世間知らずだな。覚えておきたまえ。軍隊はすべて秘密主義だ。一兵士には、次に軍隊がどこへ移動するなんていうことは、知らされないのさ。それは軍の機密だからな。わかるかい?」 「ええ」 「嫌な話だけれど、君もやがて召集されるかも知れないよ。その時の常識として覚えておきたまえ。ただなんとなく、南に行くという感じはあるけどな」 「どうしてわかるんです?」 「装備だよ。これまで零下何十度の極寒に耐えられるはずの装備が全部没収され、新たに熱帯で使うようなものばっかり与えられた。あれはどう見ても南方へ行くとしか、考えられない」 「なぜ、南方に行くんです?」  源義の問いに、男は笑って、 「ほらほら。そんなことを大きな声で言っていると、憲兵に捕まるぞ」  と、冗談を言った。しかし、源義は憲兵という言葉を聞いた途端、怯《おび》えた顔になり、あたりを見回した。それは決して冗談とは思えなかったのだ。 「なんだ。悪いことを言っちまったようだな」 「いえ。いいんです。こちらのことですから」 「それより、さっきの話だけれども、『道行』とか何とか言ってなかったか?」 「ああ、あの話ですか。『道行では仕方がない』ですけれども」 「それについて、君は何かこだわりを持っているようだな。よかったら話してみないか」 「あなたにですか?」  源義は意外な顔をした。 「別に、暇つぶしに聞こうと言うんじゃない。ただ僕は、そういうことに対しては若干の経験もあるんだ。こう見えても昔、アメリカにいたことがあってね。君、カリフォルニアって知ってる?」 「ええ。干し葡萄《ぶどう》の産地でしょう」 「そうだ。レモンやオレンジもとれるがな。そこで少し探偵の真似事をして、皆に褒《ほ》められたことがある。話してみないか?」 「そうですね」  源義は一瞬考えた。普通なら、絶対にあかの他人にそんなことは話したりしないだろう。何しろ、初対面なのだ。しかし、源義はなんとなくその人間的魅力に引かれて、なにか話してもいいなという気になっていた。 「さあ。どうぞ、こちらへ」  と、男はベンチを勧めた。源義はその前に腰を下ろして、これまでの事件についてかいつまんで話した。それでも肝心なことは伏せておいた。例えば、三種の神器どうのこうのなどということは、他人に話すにはあまりに重大過ぎる。ただ、榊と多鶴子の心中事件については、それは心中とは源義は思っていないこと。ただその考え方と矛盾する『道行では仕方がない』という内容のメモがあったことが頭を悩ませている原因だと、源義は正直に打ち明けた。 「なるほどね。『道行では仕方がない』か」 「そうです。どう思います? これは心中の証拠だと言われれば、そんな気もしないでもないんですけれども、やはりどこか違うような気がするんです」 「君はそれを、榊という被害者のノートから別人が切り取って握らせたというふうに考えているのだね」 「ええ、そうです」 「しかし、それがどういう文章の一部かははっきりしないということだね」 「その通りです」 「君の推理は、おそらく正しいと思うよ」  男は言った。 「やはり、それは心中ではなく殺人で、犯人はそれを心中に見せかけるために、本人のノートからそういった文章を切り取ったんだろう」 「じゃあ、その文章というのは、いったい何だったんでしょうか?」  わかるはずはないと思いながらも、源義は男に尋ねずにはいられなかった。男は笑って、 「さあ。それは僕にもわからない」 「そうですか」  源義は失望した。やはり聞かなければよかったと思った。だが、男は更に続けて言った。 「君。犯罪捜査でいちばん大切なことは何か、知っているかね?」 「知りません」 「教えてあげよう。それは、先入観に惑わされないということだよ」 「先入観ですか」 「そう。この法則は、すべてに通用するんだ。男女二人が手首を結んで服毒自殺している。だから心中だと決めるのも、一種の先入観だよね。それについては、君は先入観に惑わされてない。しかし、その言葉についてはどうだろうか?」 「その言葉? どういうことです?」 「『道行では仕方がない』、確かにその意味は僕にもわからない。だけど、君は『道行』というのを、つまり道を行くという漢字をそのまま「みちゆき」と読んだね。これは本当に正しいんだろうか?」 「えっ、だってそうじゃないですか? そういう言葉があるんですよ」 「そういう言葉があることは、もちろん知っている。だけど、例えばそれにミチユキというふりがなが振ってあったわけじゃないだろう」  男はそう言い、被《かぶ》っていた帽子を取って、猛烈に頭をかきはじめた。兵隊だから短く刈りこまれた頭だが、それでも男が頭を擦《こす》る度にフケがあたりに飛び散った。源義は顔をしかめた。 「いや、すまんすまん。これは僕の癖なんだよ。考え事がまとまってくると、つい頭をかく癖があってね。それにしても、今の言葉、どうだい?」 「そうですね。確かに僕はあれを、頭からミチユキと読んでました。他の可能性があるなんていうことは、考えてもみませんでした」 「そうだろう。他の可能性を調べてみたらどうだい?」  源義は名案だと思って、しばらく考えていたが、ふとあることに思い至った。 「でも、その可能性、少ないかも知れません。思い出しましたよ。最初にこのことが話題になった時、私の師匠の折口教授はちゃんと辞書を引いたんです。辞書には『道行』という言葉はそれしか載っていなかったのです」 「それはミで引いたからだろう? 他の言葉で引いたら?」 「そうか」  源義は頭をかいた。 「それに国語辞典に載っていないからと言って、諦《あきら》めるのは早計だよ。だって国語辞典に載っているのは一般名詞だけなんだからね。固有名詞だったらどうする? 例えば、人の名前とかものの名前とか」 「そうか。わかりました。ありがとうございます。帰ったらよく調べてみます」  源義は何度も頭を下げた。 「いや、そんなに感謝してくれるとこちらも面《おも》はゆいんだけど。だけど、君。まだ一つか二つ、僕に重大なことを隠しているだろう?」  源義は図星を指されて赤くなった。 「まあ、話したくなければ話さなくてもいいけど。だが、探偵をあまく見ちゃいけないよ」  男はそう言って立ち去ろうとした。源義は呼び止めて、 「すいません。僕は角川源義と言います。お名前を聞かせてください」 「はは。名乗るほどの者じゃない。単なる通りすがりの者。それでいいじゃないか」  男は帽子を被って、去って行った。男は足早に境内を歩くと、寺の山門を出ようとした。急がないと帰営時間に間に合わなくなる。ところが、そこで呼び止められた。 「おい、貴様。ちょっと待て」  振り返ると背広姿でソフト帽を被った男が、鋭い目つきで男を睨《にら》みつけていた。 「どなたです? 私は急ぐんですが。そろそろ帰営時間なので」 「まあいい。それはわしのほうから、原隊に連絡しておいてやる。ちょっと話を聞きたい」 「あなたは誰です?」  それは源義を取り調べたことのある、憲兵隊の菊地大尉であった。菊地は身分証明書を男に見せた。 「まず官姓名を名乗ってもらおうか」  男はその身分証を見ると、態度を改め直立不動で申告した。 「陸軍伍長、金田一耕助であります」 「じゃあ、金田一伍長、ちょっと来てもらおうか」  菊地は金田一の肩を押さえるようにして、山門を出た。      六  源義はとうとう五時間待ったが、待ちぼうけを食わされた。もう川上は来ない。とにかく何かあったのだということは確実である。源義は、こうなったら昨日、川上が言っていた法成寺に行って、住職の恵海に会って話を聞くしかないと思った。ひょっとしたら、恵海のところまで、何か伝言が届いているかも知れない。源義はついに決心をして、午後三時を回ったところで金閣の前を離れた。庫裏《くり》で聞いてみると、法成寺というのは金閣の裏手を十分ほど歩いたところにあった。竹藪《たけやぶ》の奥なので、源義は一度道を間違えたが、それでも何とか四時までにはたどり着くことができた。山の裾《すそ》に建った本堂と山門だけの小さな寺である。源義が来意を告げると、小坊主がそれを取り次ぎ、六十がらみの住職が驚いた顔をして出てきた。 「川上さんはご一緒ではなかったか?」 「はい。実は——」  と、源義は事情を説明した。 「そうですか、あなたが角川さん。川上のぼう[#「ぼう」に傍点]から話は聞いておる。まあ、あがりなさい」 「失礼します」  源義は奥に入った。本堂だけの小さな寺だが、どうやらかつては相当羽振りがよかった寺らしく、あちこちに転がっている什器《じゆうき》や仏像の類は、相当由緒あるもののように思われた。花瓶も無造作に花が突っ込んであるが、どうやら宋朝《そうちよう》の一品らしい。源義は、そういうものについては多少知識があった。奥の間で住職と対座すると、住職のほうが先に言った。 「それにしても、ぼうはどうしたのかな? 確かに今日、来るという連絡があって待っておったのじゃが」 「私もそうなんです」  源義は心配そうに、 「金閣の前で待てというから、朝十時から待っていました。しかし五時間たっても何の連絡もないので、とうとう直接押しかけてしまいました。失礼の段をお許しください」 「いやいや。そんなことは構わんが、五時間もな。あなたもご苦労じゃった。腹は空いておられぬかな?」 「いえ、その——」 「遠慮なさることはない。何か食べていかんか」 「いえいえ。遠慮します」  源義は固辞した。京都ではうっかり、ご馳走《ちそう》するというのを真に受けると酷《ひど》い目に遭うことがある。無礼な東夷《あずまえびす》だと馬鹿にされるのである。源義は、それを知っていたから住職の勧めを断って、話を元に戻した。 「ご住職、是非ともお教えください。私は源氏物語の最後にあった『入道相国是書を手本と為す』という言葉の意味が知りたくてここに来たのです」 「角川さん」  恵海は重々しい口調で、 「あなたは三之公村の筋目の御一族かな」  筋目とは言うまでもなく南朝に忠誠を誓った、いわば天皇の親衛隊である。 「私は筋目ではありません」  源義は答えた。 「ならば、なぜこのことに関わりを持とうとなさるのかな」 「それは、友人の死に関係しているからです。そして、やはりその友人が命懸けで残してくれた源氏の謎《なぞ》を解きたいと思ったからです。それが彼の供養になると思います」  と、源義は事情を話した。恵海は深くうなずいていたが、 「話はわかった。だが、このことは筋目以外の者は知らんでもいいことじゃ。なまじ知ったからといって、どうなるものでもないし、世の中知らんほうが幸せということもある。帰ったほうがええと思うがな」  源義は驚いて、恵海の顔を見ると、 「そうはいきません。それに川上君は、僕に話してくれるはずだったんです。それが連絡もせずに、どこかいなくなってしまいました。このことについてだって僕は——」  と、源義は絶句した。あまりに不吉な想像は口にすべきではない。 「まあ、そう心配せんでもええんと違うか。ひょっとしたら昨日、どこぞへ遊びに行って居続けでもしてしまったかも知れん。後で、すまんと連絡があるかも知れんことだからな」 「僕もそうあってほしいとは思っています。ですが——」  源義は再び口ごもった。恵海は目を閉じて、腕組みをしていた。源義はその前に両手をつくと、 「どうかお願いします。川上君が僕に話す予定だった源氏物語の秘密を、あの書き込みの謎を教えてください。あれはいったいどういうことなのですか?」  恵海は目を開けると立ち上がった。 「こちらに来なさい」  源義が案内されたのは本堂であった。本堂には中尊に釈迦《しやか》如来が祀《まつ》ってあり、両脇《りようわき》に文殊菩薩《もんじゆぼさつ》と普賢《ふげん》菩薩がある。その中央の仏の前に、縦長の小さな厨子《ずし》があった。恵海はその前で短く経文を唱えると、厨子に向かって一礼した。源義もそれにならった。それから、恵海はその厨子の下にある小さな引出しの中から鍵を取り出した。それは厨子の中央扉の鍵であった。鍵穴に鍵を差し込み、厨子を観音開きに開けると、そこには見事な龍の彫刻で縁取りした、金箔《きんぱく》を押した位牌《いはい》が入っていた。高さ五十センチ近くもある立派なものである。その位牌の上部中央には二引両《ふたつひきりよう》の紋が描かれ、その下に『鹿苑院太上天皇尊儀』と書かれていた。 「『ろくおんいんだいじょうてんのうそんぎ』ですか?」  源義の読む言葉に、恵海は重々しくうなずいた。しかしその後は無言である。 「これは、どなたの位牌なんです?」  と、源義はたまりかねて尋ねた。恵海は何も答えない。 「太上天皇って上皇のことですよね。ということは、どなたか天皇の位牌なんですか?」 「さにあらず」 「えっ」 「角川さんと言うたな。ようくその紋所を見なさい。菊じゃないじゃろが」 「あっ」  と、源義は思わず声を漏らした。こういう位牌については、必ず菊のご紋章が入るはずである。しかし、菊の紋章の入るところに二引両の紋が入ってる。二引両と言えば、誰でも知っている。これは、足利家の紋所なのだ。 「ということは、これは足利の一族。だけど足利の一族が、どうして太上天皇なんだ?」  源義は混乱していた。恵海はその間にさっさと厨子の扉を閉め、錠を下ろしてしまった。そして、先に立って本堂を出た。源義は慌てて後を追った。 「ご住職、お教えください。あれはどなたのお位牌なんですか?」 「考えればわかるじゃろう」  住職は冷たく言った。 「これ以上は自分の頭で考えなさい。わしが言うことはもう何もない」  それきり住職は何を聞いても答えてはくれなかった。それだけ見せれば充分だということなのだろう。源義はとにかく早く図書館にでも行って調べてみようと思った。ヒントは「鹿苑院」という院号《いんごう》と、二引両の紋所である。足利にゆかりのある人物であることは間違いない。源義はそのまま図書館でも行こうと思った時に、ふと等持院のことを思った。足利家代々の菩提寺である等持院が、すぐ近くにあるのである。そこで先ほどの住職に聞いたほうが、話は速いのではないか。源義は急いで走るようにして、等持院に駆け込んだ。庭を掃いていた坊さんが驚いたように、源義を見た。 「先ほどのものですが、住職さんはまだいらっしゃいますか?」  幸いなことに住職は外出していなかった。源義はもう一度会った。 「ほうほう。どうしたな。そんなに息を切らして。まあ、粗茶でも一服、いかがかな」 「いただきます」  源義は、運ばれてきたお茶をおいしそうに、一息でごくりと飲むと、 「『鹿苑院太上天皇尊儀』って、いったい誰のことですか?」  と、いきなり質問をした。 「ほほう」  住職は笑って、 「そのことに気がつかれたか。勉強されたようであるな」 「ご住職、お教えください」 「まあ、本来は不敬罪ものの話じゃが、まあ歴史専攻の学生なら、誰でも知っている話だから、話しても構わんじゃろう。まあ、そこへかけなさい」  等持院の住職は、恵海と違ってものわかりがよかった。 「学生さん、金閣に行かれたかな?」 「はい。行ってまいりました」 「金閣というのは俗称じゃ。本来は別の名がある。それをご存じかな?」 「いえ。それは存じませんが」 「鹿苑寺と申すのじゃ」 「鹿苑寺? ということは、鹿苑院というのは——」 「左様。鹿苑寺を建てた足利義満公。その方こそ、鹿苑院と申される方じゃ」 「ちょっと待ってください。足利義満というのは三代将軍でしょう。将軍ですよね。将軍と天皇は全然別じゃないですか。将軍はあくまで臣下であり、天皇というのは皇族でなければなれない。上皇だって同じでしょう。一度天皇をやった人間でなければ、原則としては上皇になれない。それが太上天皇というものでしょう」 「その通りじゃな」 「じゃあ、なぜ鹿苑院太上天皇なんです?」 「それはな、義満公の死に当たって、朝廷より太上天皇の尊号が贈られたからじゃ」 「そんなことがあったんですか?」  源義は目を丸くした。歴史という科目では、源義は常に優等生だったが、そういう話は聞いたこともない。 「もちろん、知らんじゃろう。これは、一般には教えんことになっておるからな。だが、それは紛《まぎ》れもない歴史上の事実じゃ。義満公は、朝廷より太上天皇の尊号を贈られた。ただ、幕府がこれを辞退したために、公式には残っておらん。だが、それは周知の事実であったのじゃ」 「あの、すいません。どうして、義満公は太上天皇なんていう位を贈られたんですか?」  源義は、そのことがどうしても納得がいかなかった。こんなことは、日本の歴史上一度もないはずである。太上天皇(上皇)というのは、あくまで皇族しかなれないものである。なぜなら天皇は皇族、つまり天照《あまてらす》大神の子孫しかなれないというのは、この国の絶対の掟《おきて》であるからだ。その掟に従う以上、太上天皇という尊号を受ける人間は、皇族以外には絶対にあり得ないはずだ。ところが、足利義満というのはあくまで足利氏の一族であって、皇族ではない。それなのにどうして、その尊号をもらうことができたのか。 「何、簡単じゃよ。義満公は天皇になろうとしたからだ。そしてなりきれなかった。それゆえに、皇室がその志を哀れんで太上天皇号を下さったのじゃ」  住職は淡々として言ったが、源義は仰天した。そんなことがあったなどということは、今まで一度も聞いたことがないのである。 「それは、本当の話ですか?」 「もちろん本当じゃ。つまり義満公は、ご自分のご子息である義嗣《よしつぐ》公を天皇に、そして自分は上皇になろうとされておったのじゃ。その証拠に、これは古文書にもあるが、義嗣公はご自身の元服の式を皇太子と同じ格式で宮中で行っておられる。つまりこれは立太子じゃ。もし、時の天皇、後小松帝が恐れ多いことじゃがお隠れになれば、その後は義嗣公が継がれたであろう。従って、義嗣公の父である義満公は上皇、つまり太上天皇ということになる。その準備として既に義満公の妻は、当代天皇の准母《じゆんぼ》ということになっておった。妻が准母ならば夫は当然、上皇ということになるからのう」  源義は、呆気《あつけ》にとられてその話を聞いていた。 「しかも、更にじゃ」  住職は一段と声を潜め、源義を手元に招き寄せた。 「何ですか?」 「耳を貸しなさい」  源義は、いくらなんでも大げさだと思った。この周りに人はいないし、ここは源義と住職の二人だけなのである。だが、住職はそれでも更に手招きして、耳元でそっと囁《ささや》いた。 「当時の後小松帝は、実は義満公のご落胤《らくいん》じゃという噂《うわさ》がある」  源義は、このところ、何度仰天したことだろう。しかし今度こそ、本当の意味での最大級の驚きを覚えた。足利義満がどこかの天皇のご落胤だというならば、それはそんなに珍しくもない話だ。現に、平清盛にも天皇のご落胤説がある。しかし、なんと天皇が臣下に過ぎない室町将軍のご落胤だというのは、いったいどういうことだ? これでは話が目茶苦茶ではないか。 「でも、ご住職」  と、源義は息を荒くして、 「だとすると、今の天皇家は足利氏の子孫ということに」 「しっ、しっ。めったなことを申されるでない」  と、住職は釘《くぎ》をさして、 「そのことは、心配なさることでない。後小松天皇のお子さんは称光天皇であらせられるが、ご子孫がなかった。従って、今のご皇統には何の差し障りもない。仮にその噂が真実であったとしてもな」 「でも、ご住職の言葉を疑うわけではないですが、本当にそんなことがあったんでしょうか?」 「あったとわしは思っておる。そうでなければ、一臣下の足利義満公になぜ、太上天皇号など贈る必要がある。あれは天皇の父と認めるということじゃぞ」 「それは、義満公がどこかの天皇のご落胤だったからじゃありませんか?」 「それだとしたら、皇族扱いすればいいではないか。しかし、義満公がもらったのはあくまで天皇の父という名の称号じゃ。天皇の父という称号をもらった以上は、やはり周囲の人間が義満公を、今の天皇の父上と認めていたからではないのかな。わしにはそう思えるのだがな」 「なるほど。そうですね。その通りだ」  源義は、あまりの衝撃で頭の中でよくまとまらなかった。住職に丁重に礼を述べて、等持院を辞去した後もそれは続いた。源義は、とてもまっすぐに宿に帰る気がしなかったので、京の町をぶらぶらと歩きつづけた。      七  翌日、源義は京都を去ることにした。その前に百合子と会って、現在までわかったことの報告をしたかったが、父親に睨《にら》まれていることもあり、百合子の家の敷居は高過ぎる。とにかく、家の近くまで行って、場合によっては誰かに呼び出してもらおうと考えながら、源義が伏見の百合子の家に通じる道を歩いていると、思いもかけず向こうの角から百合子が現れた。源義は駆けよって、 「百合子さん、ちょうど行こうと思っていたところです」 「まあ、そうですの。私も、実は宿をお訪ねしようかと思ってました」 「そうですか。それはよかった。すれ違いになるところでしたね。ところで、どこかお話しできるところがありませんか? いろいろとわかったことがあるんです」 「それじゃ、こちらへどうぞ」  と、百合子が案内したのは近くの甘味屋だった。百合子はぜんざいを注文した。源義も、甘いものはそれほどきらいでもないので、みつ豆を頼んだ。 「百合子さん。昨日、いろいろなことがわかりましてね」  と、源義は足利義満の話をした。驚いたことに、百合子はその話を知っていた。源義がその理由を問うと、百合子は答えた。 「実は、親戚《しんせき》に等持院の檀家《だんか》の者がいるんです。それで昔からその話は聞いていましたし、このあたりでは割合、知っている人がいるんです。兄も知っていました」 「そうですか。榊君は知っていたんですか」 「そのことは歴史専攻の学生には、ちゃんと教えるということです。それも親戚から聞いたことがあります」 「そうなんですか。僕はちっとも知らなかった。やっぱり田舎者はどうしようもないな」  源義は自嘲《じちよう》気味に言った。 「いえ、田舎者なんてとんでもないですわ。ただこのへんの人は、ちょっと昔のことを知っているだけです」 「そのちょっとの差が大きいんですよ」  源義は、今度は笑って、 「でも、そのことと貴宮本『源氏物語』にあった書き込みとの関連が、今ひとつ僕にはわからないんです」 「そのことは、川上さんという方が教えてくださるはずだったんですね」 「ええ。そのはずだったんですが、本人は来なかったので」 「ご無事かしら」  百合子は、何気なく呟《つぶや》いた。源義は、思わずはっとして、百合子の口元を見た。 「すいません。とんでもないことを言ってしまって」 「いえ。そうですね。本当にそうだ」  源義は、川上の安否も確かめずに、京都を去ろうとしていた自分を恥じた。そうなのだ。この件では、すでに榊増夫と貴宮多鶴子という二人の死者が出ているのだ。川上の身に何かあったとしても、それほど不思議なことではないかも知れぬ。 (やはり三之公村に問い合わせてみるべきだろうな、彼が帰っているかどうか)  源義はにわかに落ち着きをなくした。 「すいません。変な思いつきを言っちゃって」  百合子はふたたび謝った。 「いえ、そんなことはいいんです。それにしても、やはり三之公村に行く必要があるかも知れません」 「あそこは、電話はないんですよね」 「電話どころか、電気もないところです。まあ、そんなことはどうでもいいんだが」 「行かれるつもりですか?」 「ええ。正直言うと、今の今までそういうつもりはなかったんですが、やはり行かなければならない、と今は思っています」 「でも、あそこへ行くのは大変でしょう?」 「まあ、大変ですね。一日仕事です。いや、二日仕事かな。とにかく、山の奥ですからね」 「無理をして行かれる必要はないんじゃありません? 川上さんという方も、今頃は家にお帰りになっているかも知れないし」 「ええ。それはそうなんですけれども、やはり何の連絡もないというのはおかしいですから。是非とも、貴宮本『源氏物語』の謎《なぞ》を解きたいということもあります」 「そのお寺のご住職、法成寺ですか?」 「ええ」 「教えてくださらなかったんですか?」 「そうですね。位牌《いはい》を見せて、あとは察せよということでした。それだけ見せれば、もうわかるということなんでしょうが、僕は勘が悪くてとんとわかりません」 「あの書き込みは、どんなものでしたかしら?」  源義は、テーブルの上にノートを置いて、例の九文字を書いてみせた。『入道相国是書為手本』の九文字である。 「やはり、この入道相国というのは、平清盛じゃなくて足利義満だということですね?」  百合子は確認した。 「そういうことになりますね。昨日の話の流れから言えば」 「そういえば、御所の近くに相国《しようこく》寺というお寺があるのを、ご存じですか?」 「相国寺? ああ、京都五山の一つでしたっけ?」 「ええ。そうなんですが、あの相国寺というのは足利義満が建てた寺です」 「ああ、そうか」  源義は思いあたった。相国というのは、そもそも左右両大臣以上を務めた人間に対する称号である。もちろん、太政大臣でも構わない。義満は左大臣から太政大臣になっているはずだ。ということは、義満も相国と呼ばれる資格はあることになる。 「義満は、晩年出家していましたよね?」 「ええ。記憶があります。義満の肖像を一度見たことがありますが、僧体でしたから」 「ああ、そうなんだ。じゃあ、入道相国というのは、義満のことなんだな。それになぜ気がつかなかったんだろう。やっぱり、僕は勘が悪いな」 「そんなこと、ありませんよ」  百合子は、目の前に運ばれてきたぜんざいには手をつけていない。 「どうぞ、召し上がってください。僕も食べますから」 「はい」  百合子はうなずいたが、それでも箸《はし》をつけようともせず、 「角川さん。入道相国が足利義満だと考えるのはいいとして、それじゃあ、この手本と為すというのは、どういうことなんでしょうか? 手本というのは、いわゆるお手本という意味ですか?」 「ええ。そうだと思います。この時代でも意味は変わらないはずです。だから、彼があの源氏物語、つまり貴宮本『源氏物語』を読んで、それを手本としたということでしょうね」 「手本というのは生き方、つまり人生の手本ということかしら」 「そうでしょうね。そうなるな。つまり人生の手本ということは、あの物語を参考にしたということですよね」  源義は腕組みした。そこのところが、今ひとつわからない。 「ねえ、角川さん。こう考えればいいんじゃないかしら。あの源氏物語というのは、普通の源氏物語と違うんでしょう」 「ええ。そうです。つまりあれは、光源氏の一生を光と影にたとえると、影の部分がないんですよ。本当に光る源氏の一生なんですね。立身出世|譚《たん》と言うか、まさに『太閤記《たいこうき》』のような話なんです」 「それならば、その立身出世のやり方を義満が学んだということじゃありません?」 「立身出世のやり方ですか。でも光源氏は、特別なことはしてないんですよ。ただ、天皇の子供に生まれて、自分の心の赴《おもむ》くままに亡き母に似た、父親の妻と通じた。そしてその結果、生まれた子供が天皇となったから——」  源義はそこまで言って、はっと気がついた。ようやく昨日の法成寺の、恵海が言おうとしたことの意味がわかった。そして、川上が自分に説明しようとしたこともわかったのである。源義は目を輝かせた。 「そうか。そういう意味だったのか」 「何ですか?」  百合子が驚いて言った。源義は、あたりを見回すと声を潜めて、 「ようやくその意味がわかりましたよ。例の九文字の意味が」 「どういうことなんです?」 「ここではまずい。ちょっと、出ましょうか?」  源義は急いでみつ豆をかき込んで、百合子とともに外へ出た。どこか、周りに人のいない、静かなところがあればいいと思った。源義は近くの神社の境内に入ると、初めて話の続きをはじめた。 「あれですよ。つまり、光源氏の出世のきっかけというのは、自分と天皇の妻との間に生まれた不倫の子が天皇になったところから、始まってたんでしたよね」 「ええ、そうです」 「それが、『手本と為す』ということですよ」  源義はあたりを振り返って、ついに決定的なことを言った。 「つまり、義満と天皇の妻女の不倫の子が、後小松天皇なんでしょう。だからこそ、彼は上皇にもなることもできたわけでしょう。これが光源氏が天皇の妻と通じて、子供を産ませ、その子供が天皇になったことによって、自分は准太上天皇、つまり准上皇になったという物語の流れと、見事に一致するじゃないですか。彼は、これを意図的に真似したんですよ」  百合子は目を丸くしていた。そして、しばらく言葉を失っていたが、 「——そう言われてみれば、そうですね。二人の生き方は見事に一致している。でも将軍が、源氏物語なんか読みますか?」 「それは読んだでしょう。と言うのは、彼は三代目ですからね。初代の尊氏や、二代の義詮《よしあきら》は戦乱また戦乱の時代に生まれてますから、当然学問なんかする余裕はなかったと思うんです。だけど、彼は徳川三代将軍の家光と同じで、生まれながらの将軍ですから、生まれた時から高い教養を身につけるべく、さまざまな学問をしているはずです。それに、あの頃は儒学がそれほど盛んではなく、しかも室町幕府というのは京都にありますから、彼の家庭教師に当たるような人は、たぶん公家の出身だったと思います。そういう意味では、源氏物語に非常に近いところに、彼はいたわけです。それにご存じですか? 義満というのは、世阿弥《ぜあみ》のパトロンなんですよ。本当の意味でのパトロンで、世阿弥の子どもの頃から引き取って高い教育を身につけさせ、彼が完成させた能楽という芸術の積極的な保護者となっています。それも考えると、武骨な人間ではなくて文化人ですから、源氏物語を読んでいても不思議はない。いや、むしろ当然、読んでいたと考えるべきでしょう。彼は貴宮本『源氏物語』を、宮中の秘庫から取り出して読んだんですよ。そして、ああ、これなら俺にもできる。俺はこの小説上の人生を、実際にやってみようと思ったんじゃないでしょうか。彼の傲岸不遜《ごうがんふそん》で、皇室の権威なども屁《へ》とも思わない性格。しかもよく考えてみれば、足利氏ってもともとは源氏じゃないですか。だから、彼は光源氏の人生を自分に重ね合わせた可能性が非常に高いんですよ。つまり、彼は小説の理想を、この世の中で実行してみようと思った男だったんだ」  源義は、興奮して叫んだ。 「角川さん。おっしゃる通りだと思います。あなたの推理は素晴らしいわ」  百合子も、興奮して言った。 「百合子さん。僕は、とにかくこれから三之公村へ行きますよ。そして、川上君の安否を探りつつ、村の長老たちにこの推論をぶつけてみます。じゃあ、これから、出発しますから」  源義が一礼すると、百合子は心配そうに、 「くれぐれも気をつけてくださいね」 「わかっています」  源義は宿に戻ると、荷物を整理し、身支度を整えて出発した。すでに昼をまわっていたので、今日は吉野で泊まることになるだろう。懐がやや不安だったが、この際、そんなことは言っていられない。  源義はこの前行ったのと同じルートで、まず吉野にたどり着き、宿坊に泊めてもらうと、翌朝、三之公村へ出発した。夜明けとともに出発したため、三之公村に着いたのは、昼を少しまわった頃だった。源義はまっすぐに貴宮家を訪ね、川上惣右衛門に面会を申し込んだ。 「また、お前か」  惣右衛門はうんざりしたように、 「ここはお前の来るようなところではない。帰れ」 「待ってください。私はまず確かめたいことがあって、ここに参ったのです」 「何を確かめたいのだ」  惣右衛門は玄関の式台の上に仁王立ちになり、腕を組んで源義を睨《にら》み付けるようにして言った。源義は屈せずに、 「まず、誠君が無事にここに帰っているかということです」 「何?」  惣右衛門の表情が初めて崩れた。源義は、誠と会う約束だったことを説明し、 「それなのに、彼は来なかったのです。僕は金閣寺で五時間も待ちました。しかし、彼は現れませんでしたし、今に至るまで何の伝言も連絡もありません。それで、心配になってやって来たんです。誠君は、ご無事ですか?」 「無事だ」  惣右衛門は言った。しかし、その顔には何か動揺の色があった。 「本当ですか? じゃあ、ここへ呼んでください」 「今、ここにはおらん」 「ならば、どこにいるんです?」 「そんなことは、お前に教える必要があるか」 「あります」  源義は言った。 「彼と僕とは会う約束をしたんです。少なくともその約束について、彼が果たしていないのは事実です。会いたいというのは当然でしょう」 「そのような必要を、わしは認めぬ。孫の非礼については、わしの口から詫《わ》びる。だからもう、帰ってくれ。ここではお前は、用のない人間だ。それにしても誠め、とんでもない。このような重大事を勝手に漏らしおって」  惣右衛門は吐き捨てるように言った。 「正確に言えば、誠君は源氏物語の秘密については、僕にはまだ明かしていません。ただ、私は推理によってその内容がわかりました」 「推理だと? 何がわかったと言うのだ」  惣右衛門は嘲《あざけ》るように言った。源義は覚悟を決めて言った。 「鹿苑院太上天皇とは誰のことか。そしてその鹿苑院なる人間が、あの源氏物語を手本にしてどんなことをやろうとしたか。いや、やったかです」  惣右衛門は目を剥《む》いた。 「足利義満の大陰謀とでも言いましょうか。それが僕にはようやくわかりました。あなたたちの立場も、いや、心情もわかったつもりです」 「わかるものか」  惣右衛門は、今度は呟《つぶや》くように言った。 「我々の五百年の苦衷《くちゆう》、臥薪嘗胆《がしんしようたん》の心がお前のような余所者《よそもの》にわかるはずがない。お前はすべてを知ったつもりでいるかも知れんが、それはとんでもないことだ。我らの忠義も、我らの恨みも言葉にして言い尽くせるものではない」  惣右衛門と源義は、そのまま睨《にら》み合うかたちとなった。 「どうしても、誠君に会わせていただけませんか?」 「くどい。先ほど言った通りだ。お前は帰れ」  惣右衛門がそう決めつけた時だった。玄関に立ててある屏風《びようぶ》陰から、一人の老人が杖《つえ》にすがって現れた。 「惣右衛門。この者を座敷に通してあげなさい」 「これは、お上《かみ》」  と、惣右衛門はその場に平伏した。額を畳に擦《こす》りつけんばかりの拝礼であった。源義は、呆気《あつけ》にとられてその老人を見た。老人はまるで、七福神の寿老人のように頭はつるつるで、白く長い顎髭《あごひげ》を生やし、その面持ちには隠しきれない気品が溢《あふ》れていた。ただ、その肌には艶《つや》がなく目も生気がなかった。よく見ると、体が少し小刻みに震えている。不自由な体を杖にすがってここまで歩いてきたものらしかった。 「これ。頭《ず》が高い。控えぬか」  ぼうっと立っている源義を見て、惣右衛門は叱咤《しつた》するように言った。源義は慌てて、その場に膝《ひざ》をついて一礼した。 「玄関先を騒がせて、申し訳ありません。私は角川源義という者です」 「わしは、この貴宮家の当主だ」  老人は言った。 「では、多鶴子さんのお祖父《じい》さま?」 「その通りじゃ。貴宮|尊仁《たかひと》と申す。あがりなさい」 「お上」  惣右衛門が抗議するように顔をあげると、老人は一言、 「よい」  と言った。惣右衛門は慌てて顔を伏せた。源義は靴を脱いで、座敷に上がった。源義はこの前歓待された場所とは違う、奥の間に通された。そこは仏間らしく、中央に黒檀《こくたん》の身の丈ほどもある大きな仏壇があり、扉が閉まっていた。観音扉の上には、左右一対の菊の紋が見事に浮き彫りにされていた。老人は、その仏壇の前に座り、扉に向かって一礼すると、今度は向き直って源義と対峙《たいじ》した。 「角川さんといったな。孫がいろいろとご迷惑をかけたようじゃの」 「いえ。迷惑などとはとんでもない」  源義は慌てて言って、今度こそ額を畳に擦りつけるようにして、頭を下げた。 「申し訳ありません。私のここへの訪問がきっかけとなって、由緒ある貴宮家の跡取りをあのような目に遭わせてしまいまして、誠に申し訳なく思っております」 「まあ、お手をあげなされ」  と、老人は穏やかに言った。 「わしとて、五百年続いたこの名家が、時の流れの中に消え去ろうとしておるのは、無念で仕方がない。だが、これも運命《さだめ》のような気がする」 「お上」  悲痛な声がした。源義が驚いて振り返ると、そこにはいつの間についてきたのか、惣右衛門が正座していた。その目から涙が頬《ほお》を伝っている。 「惣右衛門。そちは下がれ。この若者と二人きりで話がある」  老人はあくまで穏やかに言った。 「お上。それはあまりに——」  惣右衛門が抗議しかけると、老人は首を振って、 「口答えは許さぬ。それとも、惣右衛門。筋目の誓いを破る所存《しよぞん》か」  惣右衛門はそれを聞くと、ぎゅっと唇を噛《か》み、恨めしげに老人を見ると一礼して、部屋を出ていった。源義は改めて老人と向かい合った。 「先ほど、玄関先で聞いた。そなたの申す通りじゃ。大逆賊・足利義満は我が家に伝わる源氏物語を読み、そしてその光源氏たらんと欲したのだ。そのことはまぎれもない。よくぞ、探り当てたの」 「いえ。ほんの怪我《けが》の功名です。やはり事実だったのですか」 「さよう」 「では、この貴宮家こそが真の——」  老人はうなずいた。 「それにしても、こんなことを知ったら、世間は驚くでしょうね」  源義は思わず言った。驚くどころか、おそらく驚きを通り越して信用しないに違いない。学校で教えていること、一般の人が常識としていることとはまるで違うのだ。特に後小松天皇のことは重要である。後小松天皇の存在があったればこそ、この貴宮家のほうが正統だという言い方ができるのである。それにしても、もし義満の陰謀が成功していたのだとすると、つまり、義満が本当に天皇の父であったとすれば、それは天皇制に対する最大の脅威だったことになる。源義はそのことを老人に言った。老人はうなずいて、 「後小松、称光の系統が続いていたら、この国は大変なことになっていたかも知れぬ。だが、若者よ。後小松の系統は称光帝で絶えた。そのことは存じおるな?」 「はい、存じています」  その後の天皇は、北朝の伏見宮貞成親王の子が継いでいる。称光帝に子がなかったからである。改めて考えてみれば、天皇でも何でもない親王の子が、急に天皇になるというのも変な話である。いかに称光天皇に子がなかったとは言え、分家の当主がいきなり本家を継いだようなものなのである。老人は、そこで初めて笑みを浮かべて、 「若者よ。称光天皇に子がなきことをどう考える?」 「どうと、申しますのは?」  源義は、その意味がわからず尋ねた。 「ただ子孫なく、ただ若くして死んだと思うのか?」 「称光帝は若死にしたのでしたか?」 「三十に至らずして、死んでおる」  源義は、そこで老人の言わんとする意味がわかった。 「では、まさか皆様方が」  称光天皇を抹殺したのか、と言いかけて、源義は慌てて言葉を呑《の》み込んだ。だが、老人はうなずいた。 「察しの通りじゃ。来なさい。そなたに開かずの蔵を見せてあげよう」  老人は立ち上がった。足元がおぼつかないので、源義は慌てて肩を貸した。仏壇|脇《わき》の障子を開けて奥に入ると、ちょうどその真裏が隠し蔵になっていた。仏壇があり、その背後に壁があり、少しその先に畳二畳分ぐらいの間をおいて、大きな扉がある。その扉にかかっている錠前を、老人は懐から取り出した大きな鍵を使って開けた。その隠し蔵は引き戸になっていて、あけるとぷーんと黴《かび》臭いにおいがした。石段がある。地下に降りていく石段だ。老人は、床にある燭台《しよくだい》を指さした。源義は、マッチでその蝋燭《ろうそく》に火をつけ、手に持った。片方で老人を支えつつ、燭台を持ち、源義は階段を降りた。階を降りると、今度は鍵の掛かってない扉があり、その引き戸を開けると、奥はこれも八畳間ぐらいの部屋があり、いちばん奥に大きな位牌《いはい》が飾られていた。背後のいちばん大きく、いちばん奥にある位牌は『後醍醐天皇霊位』と書かれていた。そして、その左側、向かって右側に後村上帝の霊位があり、向かって左には長慶天皇の位牌があった。そしてその後醍醐天皇の位牌の前に、ひとまわり小さい位牌が置かれている。それが、長禄の変で悲劇の死を遂げた自天王の位牌であった。その前には更に小さな位牌が、いくつか並べられている。源義はそれを読んだが、いずれも名も知らぬ皇族の名であった。 「わしも間もなく尊仁王という位牌となって、この間に置かれることになるだろう」  老人は呟《つぶや》くように言って、指をさした。 「そこを見なさい」  源義ははっとした。位牌の前に三つの三方《さんぽう》が置かれている。月見の宴でお餅《もち》を盛ったり、正月に鏡餅を載せたりする、あの三方である。かなり大きめの三方が三つ並べられているが、その上には紅白で縁取りをした紙が載せてあるばかりで何もなかった。 「ここに三種の神器があったんですね」  源義は叫んだ。 「そうじゃ」 「こちらのほうが、本物なんですね」 「そのように伝えられておる」  老人はこともなげに言った。 「ここが本当の賢所《かしこどころ》なんだ」  源義は、感動のあまり声が詰まった。まさか、こんな場所があるとは。ほんの数カ月前までは、そんなことは夢にも思っていなかったのだ。 「ひょっとしたら、偽物かも知らんよ」  老人は突然、意外なことを言った。源義は耳を疑った。 「この貴宮家は自天王の末裔《まつえい》で、南朝の正統であるということは伝えられておる。だが、伝えられておるだけで、それを確認する術《すべ》はないのじゃよ。先祖が言ったことを正しいと信じておるだけだからな」 「でも、これがあるじゃないですか、この神器が」 「この神器とて、本物かどうかわからん」 「————」 「そなたも、あの頃の歴史は知っておるだろう。三種の神器をとったりとられたり、奪ったり奪い返されたり、この繰り返しじゃ。我が遠祖、後醍醐の帝はかつて、逆賊足利尊氏より北朝天皇への神器の引き渡しを強要されたおりに、一度は譲っておきながらそれを偽物じゃと仰せられたという故事もある。本当のところを言うと、どれが本物の神器なのか誰にもわからぬのではないかな。今となっては」  源義は、ますます呆気《あつけ》にとられた。それでは、筋目の人々は、何のために五百年もこの山奥で苦労してきたと言うのだろう。 「若者よ。腹を立てておるのかな」 「ええ。少し」  源義は、正直に言った。 「なるほど。そなた、若いのう。それは、筋目の者どもはよく尽くしてくれておる。わしも、筋目どもの前では決してかようなことは申さぬ。だが、いまさら騒ぎたてて何となる。わしは正統かも知れぬ。だが、そのことを証《あかし》としてたてるものはどこにもないのだ。この神器が仮に本物だったとしても、それを持っているものが必ずしも正統とは限るまい。どこかで入れ代わっているかも知れぬ。それこそ義満のやったことのようにな」  老人は、乾いた声で笑った。それは、老人の言う通りかも知れない。達観していると言えば言えるのかも知れない。しかし、源義は何となく腹を立てていた。第一、それでは筋目の連中が惨め過ぎるではないか。貴宮多鶴子も、友人の榊も、何か虚しい幻のために死んでしまったような気さえしてくるのである。 「一つ、わしから頼みごとがある」 「はい、何でしょう?」  源義は言った。 「あまり、惣右衛門めを責めんでおいてほしい。あの男は、単に貴宮家に忠実なだけじゃ」 「はい。それはわかっています」 「いや、まだわかっておらんことがある。あの孫の誠がどうなったかということじゃ」 「ご老人は、それをご存じなんですか?」 「この前突然、軍に召集されたらしい」 「召集?」  源義は思わず声をあげた。そんなことがあるのだろうか。日本は徴兵制をとっているのだから、召集はありうることではあるが、あんな時期に、しかもいきなり召集されるということがあるのだろうか。 「憲兵の差し金じゃろう。誠を召集しておいて、しかも即日スパイ罪の疑いということで、軍の刑務所に入れたらしい」  源義は息を呑んだ。 「要するに、人質じゃよ。わしらにつまらぬことを言うな、つまらぬ動きをするなということだ」 「でも、そんな横暴なことがまかり通っていいんでしょうか。この国には、法律も正義もないんですか」  そうは言ったが、源義もこのところ、軍の政治への口出しが更に激しくなっていたようには感じていた。ついこの間、朝日新聞の尾崎|秀実《ほつみ》とドイツ人、リヒャルト・ゾルゲがスパイ罪で逮捕されたばかりである。二人は日本の国策を探って、ソ連に通報しているという容疑であった。 「憲兵隊も馬鹿なことをする」  老人はため息をつかんばかりに、 「いまさらわしは、どうのこうのしようとは思っておらん。もはやわしでこの家は絶えるのだし、天下を返せなどとも言うつもりもない。だが、憲兵隊はどうも我々のことが怖いようだな」 「それにしても、どうして誠君は憲兵隊なんかに目をつけられたんでしょうか?」 「さあ。常に監視の目が行き届いているということではないのかな」  と、老人は皮肉を言ったが、源義はその時、思い当たった。 (僕のせいだ)  迂闊《うかつ》だった。源義には、常に憲兵隊の尾行がついていたのである。そして、川上誠は接触したことによって、その口を塞《ふさ》がれたのだ。陸軍刑務所は地獄だという噂《うわさ》がある。軍は軍法会議という独自の法廷機能を持っているから、一度軍籍に入った者はいいかげんな裁判で、刑務所に閉じ込めることも可能なのである。陸軍刑務所では常に正座して座っていなければならず、横になったりすることができるのは夜だけである。とても過酷な刑務所で、獄死する人間も少なくないと聞いている。源義は、改めて誠に向かって、心の中で頭を下げた。 (すまん。僕が迂闊だったばかりに)  源義は、貴宮家を後にした。見送りに出た惣右衛門に対して、源義は土下座して自分の罪を詫《わ》びた。惣右衛門は、初めて心を開き、 「お主のせいではない」  と、言ってくれた。だが、源義は鉛のように重い心を抱えたまま、京都への帰途についた。山道を歩きながら考えた。自分はこれまで、真理の探究こそ正しいと信じて、脇目《わきめ》も振らずにそれを求めてきた。だが、そのことは本当に正しかったのだろうか? 次々に犠牲者が出たではないか。それは憲兵隊や特高のせいだと思ってはみるが、現実には源義の動きがそれを招いているのである。 (もう、やめるべきなのだろうか)  源義は、真剣にそれを考えていた。だが、あの榊の死の謎《なぞ》だけは解きたいと思った。やはりあれは心中ではないのだ。榊は多鶴子と親しくなり、多鶴子を説得してあの三種の神器を持ち出させた。源氏物語とともにだ。三種の神器をある目的に使おうとしていた。言うまでもなくそれは日本の、いやこの大日本帝国の国体に大きな打撃を与えるものだったのだろう。少なくとも彼らを敵視している人間は、そう判断したのだ。だが、榊はいったい三種の神器を使って、具体的にはどういうことをするつもりだったのだろうか。それがいまひとつわからない。例えば、三種の神器を持ち出して、これが本当の三種の神器だと声高に叫んでみたところで、それを誰が真面目に取り上げるだろう。おそらく、新聞も雑誌もラジオも、そんなことは取り上げてみようともしないはずである。そして、そういう声を上げただけで、ただちに憲兵隊に睨《にら》まれる。いや、それどころか不敬罪で特高に逮捕されてしまうだろう。とても、まともな手段ではその三種の神器を使う状況などないのである。それをいったいどうするつもりだったのだろうか。  アメリカのスパイ呼ばわりされたことと、何か関係があるのだろうか。しかし、なぜアメリカがという疑問は拭《ぬぐ》えない。アメリカがそんなことを発表して、何か利益があるのだろうか。 (そうだ)  と、源義は思いなおした。それよりも早く、あの『道行では仕方がない』という言葉の謎を解くことだ。あれが心中だったということは、すべてこの『道行』という言葉にかかっているのだ。これが何を示すのか。心中とは関係がないということを示せば、少なくともあの事件は偽装心中だったということになるのである。心中とは何の関係もないメモを——心中死体が握りしめているわけがないからだ。それはあの金閣寺の前であった兵隊が言っていたことをヒントにすれば、何とか解けるかも知れない。 (そう言えば、あの兵隊さん、大丈夫だっただろうか)  急にそれが気になった。もし、源義に常に尾行がついていたとすれば、あの兵隊も何らかの尋問を受けたはずである。 (だけど、あの兵隊さんとは肝心なことは何も話していない)  源義は、そう思うことにした。実際そうなのだから。それにしても、今度もしあの兵隊と会うことがあったら、そのことを詫びなければいけないなと考えていた。      八  グルー大使は、本国からの暗号文書を受け取って、顔をしかめていた。それをデスクの上に放り出すと、グルーは立ち上がり、 「まずいな。これは本当にまずい」  と、呟《つぶや》いた。そして、執事に命じて、スコット書記官を呼んだ。 「これはまだ機密なんだが」  と、グルーは用件を切り出した。 「対日関係で、どうも非常にまずいことになりそうなんだよ」 「どういうことですか?」 「これを見てみたまえ」  と、グルーは解読された暗号文書の写しをスコットに差し出した。スコットは一読して驚きの声をあげた。 「これは、大変強硬な要求ですね」 「そうだ。日本に中国からすべて手を引けということだからな。その文書を文字通り解釈すれば、日本は満州国をも放棄すべきだということになる」  それは、アメリカが日本との戦争を回避するために持ち出した条件を述べたものであった。日米間の最大の懸案は、アメリカがイギリス、オランダと手を組んで、石油禁輸措置を持ち出していることである。これは中国に対する侵略行為を一刻も早く止めることを目的に、アメリカが他の二国に呼びかけて打ち出したもので、これを続けられる限り日本はいずれにっちもさっちもいかなくなることは目に見えていた。そこで日本はどうしたらこの禁輸措置を解いてくれるかを、アメリカに向かって打診した。アメリカがその代わりに突きつけた条件というのがこれであった。要するに満州事変の前の状態に戻せというのが、アメリカの要求なのである。しかし当時それは、アメリカ政府ではハル国務長官が中心となって練り上げたものでハル・ノートと呼ばれていた。 「いったいどういうことだ。本国の上層部はいったい、何を考えているんだ」  グルーは慨嘆した。こんな無茶な要求を突きつけて、日本軍がはい、そうですかと頭を下げるとでも思っているのか。これをやるということは、これまで日本が営々として築き上げてきた中国での利権をすべて放棄しろということである。その利権には、文字通り日本人の血と汗が染みついている。日清、日露戦争以来、中国大陸で命を落とした日本人の兵士は数知れない。その人間たちの死を無駄にしないためにも、日本はそれを放棄するなどということは絶対にできないのである。そういう日本人の心情を、グルーはよく知っていた。だからこそ、このハル・ノートは無茶だと思っている。こんなことをしたら、日本は逆に頭に血がのぼって、アメリカに挑みかかりかねない。 「いくら日本人が無謀でも、そこまではしないでしょう」  スコットは、楽観的な見通しを述べた。 「それにこのハル・ノートはブラフじゃないですか? こんなのをまともに受け取りますか?」 「それが日本人なんだよ。スコット君。確かにこれはブラフかも知れない。だが、日本人は何事も真面目で、彼らはポーカーもしなければブリッジもしない。要するに、ブラフということが日常の文化の中に入っていないんだ。その証拠にブラフに対して、的確な日本語の訳語があるかね」 「そうですね。ハッタリですか」 「いや。ハッタリと言うと、確かに悪い意味にしかならないが、ポーカーにおいて例えば、自分の手があまりよくないのにブラフをかけて相手を下《お》ろすということは、そして無役でも勝つということは、必ずしも悪いことではないだろう」 「そうですね。それは相手が下りたのが悪いんですから」 「だが、日本人はそういう考え方をしない。ワン・ペアしかないのに、フルハウスやストレートフラッシュを持っている奴《やつ》に勝つことは、汚いことだと考えるんだ。だからこそ、彼らはブラフということがわからない。これをまともに受け取る可能性があるぞ」 「それでも、いいんじゃないですか。だって、我が国はペリー提督の黒船以来、日本に対しては常に強硬な姿勢をとることによって成功を収めてきました。対日外交の最大の教訓は、日本人とは協調しては駄目だ。常に強圧的に、高飛車に出るということではなかったですか」 「それは、その通りだ。私もそのことは外交研修で学んだよ。我々は日本と国交を開いて百年ほどになるが、強硬な姿勢こそ勝利の原則だった。だが今回はどうも嫌な予感がするんだよ。ここは日本人のもっとも痛いところを突いているような気がする」  グルーはそう言って、卓上の葉巻入れから葉巻を一本取り出すと、ライターで火をつけて、大きくそれを吸った。 「そこで、もし開戦があるとすれば大変なことになるので、君に一つ、用事を頼みたい」 「何でしょう?」 「本国へ戻ってくれ」 「戻るんですか、この時期に」 「そうだ。大切な任務がある。これを君に預ける」  グルーは、大型のアタッシェケースを差し出した。 「この中に大切なものが入っている。君はパウエル神父を知っているだろう」 「ええ。この間、逮捕された」 「そうだ。君には言ってなかったが、パウエルはあるプランを進めていた。彼の名前の頭文字を取って今ではP計画と呼ばれているが、そのP計画の実行に最も大切なものがこの中に入っているのだ」 「中身は何です?」 「それは、今言うわけにはいかん。しかし、君にはこのアタッシェの鍵を預けるから、日本国内を無事脱出したら中を開けてもいい。中にはあるものとその計画の説明書が入っている。それを読めば、君にはこれが日本にとって、いわばどれほどの致命傷を与える爆弾かということが理解できるはずだ」 「爆弾?」  それを聞いて、スコットは青ざめた。 「いや。爆弾と言っても驚くことはない。単に、精神の爆弾だよ。残念ながら、それを更に有効にする、ある人物はもはやこの世にはいないのだがね」 「抹殺されたんですか」 「そうかも知れない。いや、たぶんそうだろう」  グルーはうなずいた。 「いったい、それは誰です?」 「そのことも、そのアタッシェの中身にあるものに書いてある。これから準備をしたら、すぐに発《た》ってくれないか」 「すぐに」 「そう。そうだ。君の日本人の恋人はどうなった?」 「あれは、別れましたよ」 「そうか。それはよかった」 「大使も酷《ひど》いことを言いますね、よかったなんて」  スコットは顔をしかめた。 「いや、よかったんだよ。もし今も仲が続いているなら、正直に言いたまえ。すぐに結婚して、アメリカに連れ帰ったほうがいい。これから、日本は大変なことになるからな。とにかく、できるだけ早く出発してくれたまえ」 「じゃあ、直ちに準備にかかります」 「とりあえず、これは預かっておく。準備ができたら、また来てくれたまえ」 「わかりました」  スコットは部屋を出ていった。グルーは、再びアタッシェに目を落とした。その中には、一通の文書と厳重に梱包《こんぽう》された三つの宝物が入っているのである。 「これが使われる日が、来るとは思わなかったな」  グルーはそっと呟《つぶや》いた。      九  源義は、東京に戻ると、旅装を解いてすぐに大学の図書館に向かった。あの『道行』の謎《なぞ》を調べるためである。念のため、もう一度国語辞書で引いてみたが、「みちゆき」にはこの前調べた以上の意味はなかった。では「どうぎょう」かなと、源義は初めて音読みすることを考え、「どうぎょう」で引いてみた。『同行』はあっても『道行』はなかった。『同行』とは言うまでもなく、一緒に行くという意味であって、それ以上の意味はない。 (じゃあ、人の名前かな)  今度は、源義は『大日本人名辞書』を引いてみた。ここにもそのあたりは「ダウガ」『道賀』、「ダウカイ」『道海』、「ダウカウ」『道皎』、「ダウカク」『道覺』、「ダウギ」『道義』、とあって、その次はもう「ダウクウ」『道空』となって、「ダウギャウ」『道行』はなかった。すると、人名でもないことになる。少なくとも有名人の人名ではない。  どうしようかと困惑しているところに、突然救いの神が現れた。源義と同郷の国史学専攻の学生、浜元《はまもと》である。 「おお、ハマゲンか。いいところに来た」  源義は喜びの声をあげて、浜元に近づいていった。 「なんだ。角川」 「ちょっと、歴史上のことでわからないことがあって」 「どんなこと?」 「ドウギョウという人物に心当たり、ないか。どういう人物かはわからないんだけど」 「ドウギョウね。それは坊主か。それとも侍か何かか」  源義は首をひねって言った。 「いや。それもわからないんだ」 「いつの時代だ?」 「それもわからないんだ」 「それじゃ、わかるわけないじゃないか。ドウギョウなんていっただけでは。他に何かヒントになるようなものはないのか?」 「そうだな。ひょっとしたら天皇家に関係のある人物かも知れない。あるいは三種の神器に」 「三種の神器に? よし、わかった。ちょっと調べてやるよ」 「ありがとう。助かるよ。でも大丈夫か」 「まあ、任せておけと言いたいところだが、ちょっとあやふやだな。だけど、どっかで聞いたようなこともあるような気がするんだ」 「おい、本当か」  源義は、喜んで詰め寄った。 「いや、そう本気になるなよ。俺も、確かな記憶じゃないんだけれども、なんとなく覚えがあるという感じなんだよ。まあ、当てが外れるかも知れないから、気長に待ってな」 「そう気長に待てないんだ。できれば、明日ぐらいまでに頼めないか」 「えー、明日?」 「今度、蕎麦《そば》をおごるから頼むよ」  源義は頭を下げた。 「わかった。じゃあ、ちょっと調べてみよう」  浜元が請け負ってくれたので、源義は安心して図書館を出た。 (さて、これからどうしようか)  源義は空を見上げた。抜けるような青い空である。そろそろ、十二月になろうとしていた。 [#改ページ]   第四章      一  イギリス首相ウィンストン・チャーチルは執務室で、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔で、葉巻を燻《くゆ》らしながら机上の世界地図を見ていた。ブルドッグとあだ名されたこの宰相は、すでにドイツとの戦争に突入していた。  第一次大戦の敗戦国であったはずのドイツは、大戦後ヨーロッパを覆った平和絶対の空気の中で着々と軍備を拡張し、戦争を嫌う平和主義者たちの声に押され各国が適切な対応策をとらないのをいいことに、更に軍備を拡張し、とうとう周辺部の侵略に乗り出した。気がつけばオーストリアは併合され、フランスは占領され、ついにナチスドイツはその魔の手を、海を越えたイギリスまで伸ばしてきたのである。  昭和十五年(一九四〇)五月十日、ドイツ側から申し出のあった講和に対し、チャーチルは断固これを拒否した。ヒトラーとしてはイギリスを征服する気持ちはあるが、残念ながら当時のドイツは海軍力に乏しく空母すら持っていなかったため、通常の航空戦力(戦闘機と爆撃機)だけでイギリスを占領するのは難しいと判断し、とりあえずの講和を申し入れたのである。  しかし、イギリス首相チャーチルは、国内の一部から出た平和主義者のとにかく講和すべきだという要請には応じなかった。そういうことをしたからこそ、ヒトラーはここまでのさばり、隣国フランスはその支配下に置かれてしまったのである。チャーチルはすでに野党の党首であった頃から、ヒトラーの政治的野心を見抜き、盛んに警告していた。ヒトラーを一刻も早く叩《たた》くべきだと。ただその警告は冷笑をもって迎えられた。どこの国でも、第一次大戦の反省から「平和主義者」がはびこり、とにかくいかなる形の戦争も許さないという世論が圧倒的だったからである。本来なら第一次大戦の敗者であり、経済も軍備もことごとく崩壊状態にあったドイツがここまで強くなるなどということはあり得ないことであった。しかし平和主義者たちが、その監視を怠り何事も話し合いで解決すべきだという態度をとったために、ドイツはナチスの指導のもと、第一次大戦当時よりも強力な軍事国家として再生してしまったのである。ここでとりあえず、目先の平和につられてヒトラーと妥協するようなことがあれば、ヒトラーは西ヨーロッパにおける軍事力をまるまる温存し、そのままソ連の侵略に向かうだろう。そしてソ連に勝つだろう。その後は、イギリスの番である。そんな時間稼ぎの、相手にとって極めて有利な講和に対し、チャーチルはそれを受け入れるつもりはまったくなかった。  チャーチルの交戦姿勢には、肝心の軍部からも反対する声が高かった。それは純粋に戦力が不足しているというものである。イギリスも第一次大戦以降の「反省」にたって軍縮を行っていた。したがってイギリスの持っているのは十二個師団だけであり、しかも装備も不完全である。ヒトラーは講和が拒否された以上、英本土上陸作戦を敢行するに違いない。それを敢行するためには、英仏海峡及びイギリス内部の制海権と制空権を握らなければ駄目である。その方針に沿って、ドイツ空軍は戦闘機、爆撃機、急降下爆撃機を総動員し、イギリス側の飛行場、飛行機製作工場、レーダー基地、港などを次々に爆撃した。これに対してイギリス側は、応戦できる戦闘機がたった七百機しかなかった。だがそれでもイギリスはチャーチル以下の卓抜な戦争指導者のもとで、ドイツ軍を追い払うことに成功した。このことにはドイツ軍側の作戦ミスもあった。それまで、工業地帯及びレーダー基地を攻撃することに重点を置いたドイツ空軍は、突然秋になるとロンドンを集中的に爆撃する方針に変えたのである。ヒトラーとしては、首都を破壊し、その人心を恐怖に落としこむことによって有利に戦局を展開しようという思惑《おもわく》があったのであろう。ところがこれが大誤算だった。イギリスはヨーロッパ一の工業国である。そして工業地帯はむしろ首都ではなく、周辺の地域にある。首都がさんざん攻撃されている間に、イギリスは各地で飛行機の生産に全力を注ぎ、ついにドイツ空軍を圧倒するほどの量を生産することに成功した。そのことによって、ついにドイツはイギリスにとどめを刺しそこねたのである。 (問題は日本だ)  と、チャーチルは思っていた。チャーチルが、今恐れていることは二つある。一つは、イギリス攻略に失敗したドイツ軍が、その失点を取り返すべくソ連に全力をあげて攻撃をかけた時、精強な日本陸軍がこれに呼応してアジアの側からソ連を攻めないかということである。これをやられると、ソ連は滅亡の危機に陥る。東ヨーロッパ戦線だけでも手不足なのに、ソ連と満州の国境付近で日本軍に攻められたら、そこに配置されている精鋭部隊は釘付《くぎづ》けとなり、首都救援に向かうことができない。ソ連は滅びるだろう。そしてソ連が滅びてしまえばヨーロッパの軍事バランスは大きく崩れ、ドイツの天下となる。これは防ぎようがない。 (私が日本の指導者なら、断固ソ連を攻めるところだが)  しかし不思議なことに、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、戦争をしないということを決めていた。どういうつもりなのかは、よくわからない。ひょっとしたら時間稼ぎのつもりかも知れないのだが、日本とドイツはイタリアを含めて三国軍事同盟を結んでおり、もしヒトラーのドイツを助けるつもりがあるならば、当然ソ連に攻め入るべきものである。それをなぜしないのか。チャーチルは日本人という民族の考えることが、いまひとつ理解できなかった。  日本の動向は重要だ。英本土を攻撃する能力を日本は持っていないにしても、フィリピン、マレー、そしてインドといった大英帝国がアジアに所有する大植民地を、日本は充分に攻撃しうるし、また攻撃する意志があるものと見なければならない。その証拠にドイツがソ連に侵入すると、日本は中立条約を守って北進はしない代わりにその間隙《かんげき》をぬって南に進む政策を示した。即ち、南部仏印(仏領インドシナ)に兵を送り、進駐をしたのである。これは、ドイツの支配下に置かれたフランス政権の承認をとった行為であった。しかし仏印からは、イギリスの東アジアにおける最大の軍事拠点、シンガポールを爆撃機で狙《ねら》うことも可能である。このため、ことしの七月二十六日、イギリスはアメリカと共同歩調をとり、対日資産の凍結を発表した。そして翌日には、オランダもこれにならった。更にアメリカとオランダは、日本に対して石油禁輸の措置をとった。これは日本を兵糧攻めにしようという作戦である。その上でアメリカは、ハル国務長官が作成した、日本は中国からすべて兵をひけ、という強硬な要求を突きつけたのである。これが最後|通牒《つうちよう》となって日本が屈伏するかどうかが、現在の最大の問題であった。 (屈伏するはずはない)  チャーチルはそれを確信していた。そんなことをすれば、日本は崩壊してしまう。だが、これからどういう作戦をとるかと言えば、チャーチルにもいまひとつ予想がつかないものがあった。チャーチルは、秘書に命じて補佐官のアル・ホプキンスを呼ばせた。 「閣下、御用ですか?」  ホプキンスはすぐに現れた。まだ三十代だが、チャーチルはこの男の立案能力を高くかっていた。 「アル、ちょっとそこにかけて、相手をしてくれ」  チャーチルは、葉巻を燻《くゆ》らしながら言った。 「何でしょう?」 「まあ、ちょっとしたゲームだよ」 「ゲーム? ポーカーですか? 二人で?」  ホプキンスは苦笑した。チャーチルはポーカーもブリッジもうまい。特にポーカーフェイスというのは、チャーチルのためにあるのではないかと思われるほどである。いちばん悔しい思い出は五人でやった時に、自分はフルハウスを作っていたのにワンペアのチャーチルにしてやられたことである。もっともそれだけ言うと馬鹿みたいな話だが、その前には実際チャーチルが高い手を作っていたという伏線があるのだ。ときどき高い手を作るからこそ、騙《だま》されるのである。 「なに、カードゲームじゃない。君にちょっと、日本をやってほしいんだ」 「日本というのは、日本政府の立場ということですね」 「その通りだ。私はもちろんイギリス政府を代表する」 「おもしろいですね。私は、日本の国益に沿って動いていいわけですね」 「当然だ。じゃあ、始めるぞ」  チャーチルは葉巻を置いて、真剣な態度になった。 「我々は、アメリカと共同歩調をとり、貴国に対し最後通牒を突きつけた。では、君はどうするのだ?」 「そうですね。非常に難しい問題ですが、大きく分けて二つやり方があると思います」 「二つ」 「そうです。まず一つは、とにかく石油禁輸措置は我が国に、つまりこれは日本のことですが、我が国にとっては致命傷ですから、これは何とか打開せねばならない。そこで貴国、これはもちろんイギリスのことですが、貴国とオランダに対して宣戦布告します。そしてシンガポールを攻撃し、あのあたりのオランダ領にも侵攻して、石油地帯を確保し、そうですね。それから後は出たとこ勝負ですね。とにかく、石油地帯を人質にとってしまえば、外交的交渉でさまざまなことが可能だと思います。これが第一の道です」 「なるほど。で、第二の道とは?」 「それは簡単です。アメリカの最後通牒、いわゆるハル・ノートを受諾してしまうんです」 「受諾?」 「そうです」 「しかしそれでは、国の中が治まらないんじゃないかね」 「確かにそうですが、ハル・ノートはもともと以前に出された日米|諒解案《りようかいあん》の延長線上にあるものですから、そもそも日本が、いや我が国がですね、受け入れられないものではないと思います」 「あれは非常に日本に有利な提案だったな」 「ええ。日米諒解案ですね。満州国を承認し、満州国以外の中国からは兵を引くというものですから、考えてみれば不思議ですね。これをなぜ松岡、いや我が外相は受諾しなかったんでしょう」  松岡|洋右《ようすけ》は日本の外務大臣であった。日米諒解案というのは、この松岡の主張にある程度沿った、極めて有利なものであったにも拘《かかわ》らず、当時日本の外交のほとんどを任されていた松岡は、これを受諾もせず承認もせず、結局うやむやにしてしまったという「実績」がある。その結果、ハル・ノートという強硬な案が出てきたのだ。 「それは松岡のミスだろうが、それはとりあえず問わないことにして、ハル・ノートを受諾するというのは、もっと具体的に言ってくれ。どういうことかね?」 「つまりあのハル・ノートは、先ほども申し上げましたように日米諒解案の延長線上になります。つまり、ハル・ノートは一見強硬なようですがよく読みますと、例えば中国から撤兵せよとは書いてありますが、その撤兵時期、条件については何も書いてありません。つまり、ここは交渉によって解決すべきだという含みがすでにあるわけです。ですから、とりあえずこのハル・ノートを受諾してしまい、その見返りとして対日資産の凍結を解除させ、石油の禁輸措置も解除させる。アメリカは、まさか自分の要求に応じた国の要求に対して、それを拒否するなどということはできませんから、これは成り立つはずです。そしてあとは、時間稼ぎをすればいいのです。実際問題として、中国からの撤兵とは言うが、中国とは満州国を含むのか否か。あるいは兵をひくと言っても、その手続き、方法、時期などについて協議して決めればいいのです。そのあとはどうにでもなりますよ」  チャーチルは笑いだした。 「閣下、何か変なことを申し上げましたか?」  アルは怪訝《けげん》な顔をして言った。 「いや。天才だ、君は」  チャーチルは笑いを収めて、 「実際、君の言う通りに事態が進んだら、どうしようかと思っていたんだよ。その二つの方法のうちどちらをとられても、我が国は非常に困難な状況に陥る。君にはわかるだろうが」 「つまり、アメリカが参戦してくれないということですね」 「そうだ。ルーズヴェルト大統領は、我々の味方だ。いつでも我々と共に立って、戦う用意がある。だが、それには大義名分が必要なんだ。彼は一応、アメリカの青年は絶対戦場に送らないという公約で当選してきている人間だし、自分から戦争をやるとは口が裂けても言えない。どうしても先に日本側に手を出させるようなことをしなければならない。そうしない限り、アメリカは参戦できない。そして残念ながら、少なくとも極東においては、アメリカの力がなくては我々は日本には勝てない」 「そうでしょうか」  今度は、アルが鼻を膨《ふく》らませた。 「若い君が不満に思うことはわかるが、これは事実だよ。冷静に言って、我が軍はアジア人の軍隊に負けるはずがないのだが、唯一負ける可能性があるとすれば日本だ。その日本を倒すためには、どうしてもアメリカの援助が必要だ。アメリカをこの戦争に巻き込まなければならない。だが、君の考えた二通りの方法は、どちらもアメリカを巻き込ませず、我々とオランダだけの限定戦争になる。それがまずいんだよ」 「なるほど」  と、ホプキンスは自分が呼ばれた理由がわかった。チャーチルは他に方法がないかどうか確認したかったのだ。 「本当は、このところちょっと胃が痛いんだ」  チャーチルはぼやいた。 「何とかして、アメリカをこの戦いに巻き込まなければならない。大統領の、そして彼らの最高指導者の承認はとってあるんだ。だが、口実が見つからない。口実が見つからない限り、絶対に戦争はできないんだ。少なくともアメリカはな」 「何か、打つ手があるでしょうか?」 「いや、今のところはない。私は正直言って、これまで神に頼ったことはないんだが、今度ばかりは神に祈りたい心境だよ。おろかな黄色い猿が何かミスをしてくれないかなとね」  チャーチルは憮然《ぶぜん》として言った。      二  源義はその日、珍しく寝過ごした。夜遅くまで調べ物をしていたからである。しかし、肝心なことについての進展は一歩もなかった。『道行では仕方がない』のあの文字の謎《なぞ》が、どうしても解けないのである。源義は源義なりに、『道行』とはどういう意味なのか、いちいちいろんな文献で調べてみたのだが、どうもはかばかしい結果は出ない。 (やっぱり、浜元に期待するしかないか)  源義は布団をあげて着替えて、まさに出ようとした時、浜元のほうから下宿を訪ねてきた。 「出てこないんで、ちょっと寄ってみたよ」 「ああ、すまん。今日はちょっと、寝坊しちまったんだ。まあ、あがれよ」 「うん」  浜元は小脇《こわき》に本を抱えていた。源義は下宿のおばさんにお茶を頼むと、座り机の前に座布団を出し、浜元と向かい合わせに座った。 「で、わかったか?」 「ああ、わかったよ。一人だけいた。道行《どうぎよう》という男が」 「男? つまり人物の名前だったのか?」 「ああ、まあ。法師だ」 「法師? つまり坊さんか」 「まあ、坊さんなんていうほどの者じゃないな。こいつは言ってみれば、何と言うのかな、まあ国賊だな」 「国賊?」 「あるいは国賊と言うよりは、そうだな、今で言うとスパイと言ったほうがいいかも知れんがな」 「スパイだって?」  源義は目を見張った。 「そんな男が日本の歴史にいるのか?」  源義は、そんな名前の男も、それがスパイであるなどということも、学校ではもちろん習わなかったし、知識として耳にしたことすらなかった。 「ああ。それはそうだろうな。普通のところでは習わないから。まあ、知っているのは我々歴史専攻の学生ぐらいかな」  と、浜元は得意そうに鼻を蠢《うごめ》かすと、分厚い本を前において、しおりの挟んである頁を開いた。源義が見ると、それは『日本書紀』だった。言うまでもなく、千年以上も前、日本において初めて編纂された歴史書である。 「ここを見ろ」  浜元が言った。そこには次のように書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  『是歳《このとし》、沙門|道行《だうぎやう》、草薙剣《くさなぎのつるぎ》を盗みて新羅《しらぎ》に逃げ行く。而《しかう》して中路に風雨に逢ひて、荒|迷《まど》ひて歸《か》へる』 [#ここで字下げ終わり] 「『沙門道行』。つまりこいつが三種の神器の一つ、草薙剣を盗んで新羅へ持っていこうとしたが、嵐か何かに遭って難破して、戻されてしまったということか?」 「その通り。乗っていた船が、嵐に吹き寄せられるかたちで浜にうち上げられ、結局この道行は捕らえられ、草薙剣も戻ったということだ」 「いったい、この道行という男は、なんでこんなことをしたんだ?」 「それはよくわからないんだがな。これは、天智天皇紀に載っていることなんだ。つまり、天智天皇の御世に、新羅との外交関係は非常に悪かったわけだ。あの白村江《はくすきのえ》の戦いもこの頃だからな」 「白村江の戦い?」  源義は聞きなれぬ言葉に、首をかしげた。 「ああ、それも知らないんだな。それはな、角川。日本が唐・新羅連合軍と戦った、おそらく古代における最大の海戦のことだよ」 「海戦? そんなことがあったのか。で、どっちが勝ったんだ。やっぱり日本か?」 「何、言ってるんだ。日本はボロ負けに負けたんだよ」 「えっ?」 「だからこそ、書いてないのさ。日本が大勝したなら、そんなこと教科書に麗々しく書いてあるに決まっているじゃないか」 「負けたのか」  源義は意外そうな顔をした。 「そうだよ。我々がかつて、そういう大敗北を喫したことがあるんだ」 「しかし、じゃあ、なぜそれを歴史で教えないんだ。教えなければ教訓にならないじゃないか」 「そんな教訓は必要ないのさ。我が国は神州不滅《しんしゆうふめつ》、金甌無欠《きんおうむけつ》の国だから、そんなことは書いちゃいけないのさ」  浜元は自嘲《じちよう》気味に言ったが、その時下宿のおばさんがお茶を持ってきたので、しばらく口を噤《つぐ》んだ。おばさんが階段を降りていってしまうと、源義はさっそく身を乗り出して、 「つまり、当時日本と新羅はほぼ交戦状態にあった。そこで道行という新羅のスパイが、三種の神器の一つを盗みだそうとしたということか」 「そういうことだな。『日本書紀』から類推する限りは」  と、浜元はうなずいた。 「そうか。そうだったのか」  源義は、思わず大声で叫んだ。これでようやく、話がつながるではないか。なぜ、死んだ榊はあんなことを書いたのか。彼は、貴宮家に伝来した「本当の」三種の神器を国外に持ち出そうとしていた。そして、おそらくその興味からか、あるいは偶然か、自分たちと同じことをやろうとした「先輩」がいることを知った。それが道行だ。しかし道行は、持ち出そうとして失敗している。結局、彼は持ち出すことができなかったのだ。そこで書いたのだ。『道行では仕方がない』と。それは、三種の神器持ち出しに成功しなければ意味がない、かつての道行の轍《てつ》は踏まないぞということだったのだ。それを、彼はノートか日記などのようなものに書いていたのだろう。それを押収した特高警察なり憲兵隊なりが、そこの部分を切り取り、『道行《みちゆき》』の証拠に仕立てたのだ。 「何を興奮してるんだ。わけを教えろよ」  浜元は怪訝《けげん》そうに言った。 「いや、これはちょっと」  源義は口ごもった。そういえば、まだ憲兵の監視は付いているのだろうか。浜元をここに来させてしまったことは迂闊《うかつ》だったかも知れない。浜元にも何か嫌疑が掛かったら、どうすればよいのだ。 「おい、角川。水臭い奴《やつ》だな、教えろよ。お前のために、昨日ほぼ徹夜して調べたんだぜ」  源義は迷っていた。だが、逆の状況なら自分だって納得しないはずだ。 「おい。ここだけの話だぞ」  源義は言った。 「何だ、大げさだな」 「大げさじゃないんだ。このことについては、すでに死人も出ている。いいか。憲兵隊にも目を付けられるんだぞ」 「憲兵隊?」 「それでも聞くか」 「————」 「どうしても知りたいのなら教えてやろう。いいか、ことの発端は、源氏物語にある」  と、源義はこれまでのいきさつを詳しく話した。それを聞くうちに、浜元の顔は青ざめていった。 「そんなことが、本当にあるのか?」 「物的証拠は、今はない。その貴宮本『源氏物語』も、三種の神器と称される遺物も、我々の手元にはない」 「どこにあるんだ?」 「たぶん、憲兵隊の蔵か、あるいはそのあたりだろうな。どうだ、浜元。歴史を学ぶ者として、これはまったく荒唐|無稽《むけい》の話だと思うか?」  源義は、問い詰めるように言った。 「いや、そうとは思えない。いちいち思い当たるふしもある。お前の言う、足利義満のことについては、実は歴史の学生は習うんだよ。ただし、あくまでそれこそここだけの話だがな、というかたちで教えられるんだ」 「むしろ言うべきじゃないのか、教育の場では」 「冗談じゃない。そんなことを言ったら、直ちにクビになってしまう」 (それにしても、そういうことはやはり教育のやり方としては、おかしいのではないだろうか)  源義が腕組みして考えこんでいると、浜元は新たな疑問を提出した。 「角川。俺は一つ、疑問があるんだが」 「何だい? 義満のことかい?」 「いや、そうじゃないんだ。お前の推理のことだよ。あの道行というのは、前後の関係から言って、道行《みちゆき》ではなく七世紀に実在した僧・道行《どうぎよう》のことを指しているかも知れん。だが、本当に榊はその三種の神器なるものを持ってだな、アメリカに行くつもりだったんだろうか。そうすると、道行とは少し違うところがあるんじゃないか?」 「どこが違う?」 「道行の当時の日本と新羅は戦争した、つまり交戦国だった。だが、今の日本とアメリカは交戦国なんかじゃないぜ」  源義は、そう言われてみればそうだと思いながらも、反駁《はんばく》した。 「だが、潜在的な敵国じゃないか。いや、潜在的どころか、このところ石油の対日禁輸措置だって行っている。これはもう、立派な挑発行為だ」 「だからと言って、角川。お前、日本とアメリカが戦争すると思っているのか?」 「それは」  源義はそう言われて詰まった。子どもの頃から、日米もし戦わばというような言論や小説には何度も触れてきた。日米未来戦ブームというものもあり、いずれ日本とアメリカが戦えばどうなるか、あるいは戦うべきか否かということについて、少年の頃からよく博覧会のようなものが開催されたし、源義自身は見たことがないが、百貨店でも日米未来戦博のようなものが何度も行われたということは聞いている。それは、海軍省後援で当然、日本が暴虐なるアメリカを叩《たた》きのめすという内容のものだが。しかし、実際問題として日本とアメリカが本気で戦争をするなどということを考えている人間は、あまりいないと思う。確かに日本にさんざん理不尽な要求を押しつけるアメリカに対して、開戦をすれば精神的にはすかっとするに違いないが、だからと言ってアメリカの実力は侮《あなど》れない。しかも日本はまだ中国との戦争を続行中なのだ。一方で中国との戦争を行いつつ、その収拾さえ行えないのに、アメリカと戦争を始めるなどというのは正気の沙汰《さた》ではない。だから誰もが望んではいるのだろうが、決してできないと思い込んでいることも、日米開戦に他ならなかった。 「そう言われてみれば、そうだな」  源義はもう一度言った。 「まあ、その点、ひょっとしてアメリカにはそれを武器として使って、日本に対して優位を確保しようという気持ちがあるのかも知れない」  浜元はそう言って、議論を締めくくった。      三  源義は、ついにすべての謎を解いたと確信していた。だが、これをもって榊と貴宮多鶴子を殺した人間を捕まえることができるかと言えば、そういうことはまずあり得ない。これは国家権力の名のもとに行われた犯罪なのだ。いかに源義が、歯噛《はが》みして悔しがろうと、そこのところはどうにもできないはずだった。だが、源義はそれでも敢《あ》えて決着をつけることにした。あの男に会うのだ。あの男がすべての鍵を握っていることは、もはや疑いのないことである。だが、どこへ行けば会えるのか。 (そうだ)  源義は思いあたった。源義は、相手の力を利用することを思いついた。源義は、ことの発端となった源氏物語の文庫本を持って、日比谷公園に行った。木枯らしも冷たいが、源義は外套《がいとう》を着たまま吹きさらしのベンチに座った。そして、文庫本を読み始めた。案の定、そんなことをしている人間は一人もいない。 (もし、僕に監視が付いているとしたら、このあたりにもいるはずだ)  その予感は正しかった。少し離れたところで、木陰からこちらを見つめている男がいた。源義は、その男が例の一員に違いないと確信すると、やにわに立ち上がり、その男を追い詰めるようにして駆けよった。男は身を翻そうとしたが、源義は、 「待ってください。お話があります」  と、呼び止めた。男は鋭い目つきで振り返った。ハンチングを被《かぶ》り、ジャンパーを着た普通の服装の男である。だが、源義はその正体を知っていた。 「憲兵隊に戻ったら、菊地大尉に伝えてください。角川源義が是非会って、お話ししたいと言っていたと。明日、同じ時間にこのあたりでお待ちしていますと」  源義はそう言い捨てて、踵《きびす》を返した。男は呆気《あつけ》に取られたのか、それ以上源義を尾行しようとはしなかった。  翌日源義は、外套に身を包んで日比谷公園に立っていた。昨日と違って風はないが、かなり冷える。もう昼下がりだというのに、太陽の光は弱々しく暖かさを運んでこない。源義はしばらく待った。だが、それほど待ち続ける必要もなかった。軍服ではなく背広を着た菊地大尉が、物陰からすっと現れた。 「何か、話があるそうだな」 「そうです」  源義は、菊地と正対した。 「菊地さん。僕は、今度の事件の謎《なぞ》がすべてわかりました」 「事件の謎と言うと、どういうことかな?」 「榊増夫と貴宮多鶴子が、誰に殺されたかということですよ」 「殺された? あれは心中だろう」 「その証拠に『道行では仕方がない』というメモを握っていた。そうおっしゃりたいんですね」 「そうだ」 「あれは、ミチユキと読むのではありません。ドウギョウと読むのです」 「ドウギョウ?」  菊地は首を傾げて見せた。見事な惚《とぼ》けぶりだった。 「ご存じのはずです」  源義は冷静に言った。 「七世紀に、三種の神器のうちの草薙剣《くさなぎのつるぎ》を、盗み出そうとして失敗した新羅《しらぎ》のスパイです。その道行に榊はなりたかったんです」 「君は死んだ友人を国賊呼ばわりして、その名誉を傷つけようと言うのか」 「とんでもありません。彼は信念のある立派な男でした」  源義は憤然として言った。 「彼は、この国の体質に飽き足らないものを持っていた。だからこそアメリカという新天地に行き、その体制に対して致命的になるある事実を公開しようとしたんです。それが彼の——」 「それが非国民だと言うのだ」  菊地は、軍人の本性を見せて、声高に怒鳴りつけた。源義は思わず怯《ひる》んだ。 「じゃあ、やっぱり榊が三種の神器を持ち出そうとしていたことを、お認めになるわけですね」 「馬鹿な。三種の神器など、あの者が手を触れられるわけがないだろう。あれは宮中の賢所《かしこどころ》にある」  と、菊地大尉は後ろを振り返った。お堀の先には宮城がある。神器は、その奥深く納められているはずだ。 「僕も、あそこにあるもののことを言ってるんじゃないんです。それとは別の神器です。あるいは本物の」 「馬鹿な。そんなこと、あるはずがない。三種の神器は今もここにおわす、正統なる天皇《すめらみこと》のもとにな」 「わかりました。そう思いたいのならそれでもいいし、現実にあの三之公村の貴宮氏も、自分が正統かどうかは、本当はわからないとおっしゃってました。だけど、一つだけ聞きたいんです、菊地大尉」 「何だ?」 「私の推理は正しいんでしょう。はっきり言いましょう。あの二人を心中に見せかけて殺したのは、あなただ。あなた自身が手を下したのか、それとも部下にやらせたことなのか、それはわからない。だけど、あなたが首謀者であることは間違いない。どうです?」  源義は、腹の底に力を入れて詰め寄った。 「小僧、いい度胸をしているな」  菊地は、余裕をもって冷笑した。 「陛下の股肱《ここう》たる陸軍軍人に対して、そのような侮辱をするとは、どういう意味かわかっているのか」 「わかっています。大尉、僕もあなたを司直の手に委《ゆだ》ねられるとは、夢にも思っていませんよ。だからこそ、いいじゃないですか。僕は、彼の死が単なる心中でなかったことを納得したいんです」 「納得してどうする? いまさら死者は帰って来んぞ」 「いえ。一人でも彼の行為の真の意味を、そして彼がどうして死んだのかを理解している者がいれば、それは彼の供養になると思います」 「供養か。単なる自己満足ではないのか」 「大尉。はっきり言って、私がどんな推理をしようとあなたを捕まえることなどできません。それはおわかりのはずです。ですから、ここは男らしく潔く本当のことを言ってください。榊はあなたが殺したんですね?」  源義は菊地を睨んだ。  菊地はしばらく黙っていたが、 「わしも男だ。だが、角川君。公的な立場の人間は、答えられることと答えられないことがある。決して逃げを打つわけではないぞ」 「わかりました。でも、こう考えていいですね。あなたは、私の推理を否定はされなかったと」  菊地は黙っていた。しかしその目は、源義の言葉を正しいと認めていた。 「帰ります」  源義は言った。 「それがいい。君も今度のことは、もう忘れることだな。そして、学生の本分の勉強に戻りたまえ。それがわしの忠告だ、君の度胸にささやかな敬意を表してな」  菊地は言った。 「あと一つだけ、知りたいことがあります」 「なんだ?」 「貴宮本『源氏物語』は、いったいどこにあるんです? そして三種の神器は?」 「そのようなものがあるとは、国家の公式の記録には残っておらん。つまり、そのようなものはないということだ」 「それが公的な立場としてのお答えですか?」  源義は言った。菊地は、黙って踵《きびす》を返すとそのまま去った。  菊地の脳裏には、ここへ来る前に交わした、部長の村上中佐との会話が甦《よみがえ》っていた。 「あの本を皇道大学の山森先生にお見せしたところ、山森先生は顔色を変えられ、この本は毒の紙だ、直ちに焼却処分にすべし、とおっしゃった」 「それで焼却されたのですか?」 「それはわからん。あるいは、特別なところに保管されているのかも知れん。だが、もう二度と世に出ることはあるまいよ」 「そうですか」 「もう一つ、あれはどうなった?」 「あれと申しますと、例のあれですか?」 「そうだ」  三種の神器という言葉は、もちろん二人の間では禁忌《タブー》である。そんなものは、本物はあくまで宮中にあるのだから。 「まだわかりません。最後に残った手掛かりの角川という男の周辺を探っていますが、どうやらあの男も知らないようです」 「アメリカのスパイに持ち去られたか」  中佐はそう言って、苦い顔をした。 「いえ。仮に持ち去られていたとしても、あれだけでは何の問題にもなりません」 「そう敵を甘くみるものではない。とにかく、行方を探せ。そして見つけたら処分するのだ。いいな」 「わかりました」  菊地は今、源義もその行方を知らないことを確信した。わざわざ知っていて、あのようなことを言う青年ではない。 (あれはもう、この国にはないのかも知れないな)  と、菊地は思った。      四  源義はもう一カ所、行くべきところがあると思った。榊の母校、明星学院大学である。 「カミング神父にお会いしたいのです」  源義は来意を告げた。しばらくして、カミング神父が姿を現した。まだ三十そこそこの背の高い金髪の男である。 「亡くなった榊増夫の友人です。彼のことについて、お話ししたいことがありまして」  と、頭を下げた。神父はちょっと驚いたように、 「わかりました。それでは、こちらへどうぞ」  と、流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。応接間のようなところに通されて、源義は緊張して座った。神父は話を聞く姿勢をとった。源義は、覚悟を決めて切り出した。 「実は、友人榊君から、僕は例の源氏物語を預かった者です」 「例の源氏物語? 何のことです?」 「惚《とぼ》けないでください。神父さん。あなたが榊君から、いろいろなことを聞いていたことはわかっているんです」 「わかりませんね。どういうことでしょう」 「私は、特高警察の手先でも憲兵隊の手先でもありません。ただ、榊君が信念を持ってやろうとしたことを、一人でも何とか記憶に留めたいと考えている人間なんです。彼は僕に源氏物語を託しました。あの貴宮本『源氏物語』を。そのことはたぶん、あなたに彼は話したはずです。上野の仏蘭西軒で榊と夕食をとったのは、あなたでしょう?」 「角川さん。私はあなたが何を言っているのかわからない。これ以上、わけのわからないことをおっしゃるなら、お帰りになっていただけませんか」 「神父さん、お願いです。聞いてください。僕は、国家の政治とも外交問題とも関わりのないただの学生なんです。ただ、彼が心中に見せかけて殺されたことを、残念に思っている人間なんです。だからその真相を、せめて僕だけでも明らかにして、彼の遺志をできれば継いでいきたいと思っています」 「彼が殺された? それは初耳ですね」  カミング神父は、大げさな身振りで驚いて言った。 「彼は、心中でしょう。心中なのに、あなたは彼が殺されたとおっしゃるんですか?」 「ええ。国家権力に、憲兵隊にです。そのことはあなたもご存じのはずです」  と、源義はカミング神父の目を見据えて言った。 「どうして、私が知っている? なぜそんなことが言えるんです?」 「簡単ですよ。あなたは榊君が死んだ時に、静岡の警察に電話を掛けて、彼の葬式をやりたいというふうにおっしゃったそうじゃありませんか」 「ええ。それが何か?」 「カトリックでは、自殺者は神父が祝福しないのではありませんか」  源義は言った。  神父は顔色を変えた。  カトリックでは、自殺は神から与えられた命を無駄に使うことで、殺人と並ぶ罪とされ、それを侵した人間は通常の信者が受けることのできる神父の祝福を受けることができないのである。そればかりではなく、墓地も区別されるということも聞いたことがある。 「どうです。それでもあなたが、彼の葬式をやりたいと言ったのは、あなたは彼が心中、つまり自殺ではないことを知っていたからでしょう。違いますか?」  神父は長い間沈黙していた。だが、ふうっと大きくため息をつくと立ち上がり、応接間のドアを一度開けて廊下を見ると、誰も人影がないのを確かめてから言った。 「君は大した名探偵だね。その通りだよ」 「じゃあ、もう一つだけ教えてください。三種の神器は今、どこにあります?」 「それは、私の口からは言えない」  と、カミングは菊地と同じようなことを言った。 「ただ一つ言えることは、近々公開されるだろうということさ」 「アメリカでですか?」 「他に、そういうことができる国はないんじゃないかな」  源義はうなずいた。 「ありがとうございました。これで、彼の魂も浮かばれると思います」 「彼の魂は、もともと救われている」  神父は、ぽつりと言った。 「どうしてです?」 「決まっているじゃないか。彼は神を信じていたからさ。君はどうだね?」 「私も信じています。ただし」  と、源義は扉のところで振り返った。 「あなた方の神とは違うものです」  源義はドアを閉めて、廊下に出た。いつの間にか涙が出てきて、源義の頬《ほお》を濡《ぬ》らした。どうして涙が出てくるのか、源義にもわからなかった。源義はその涙を拭《ぬぐ》おうともせず、歩き続けた。      五  アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは、このところ機嫌がいい。もともと躁鬱《そううつ》症の傾向があったが、ついこの間まで胃を押さえ苦しんでいたのに、このところは朝から口笛を吹き、鼻唄《はなうた》が出るほどの機嫌の良さである。  秘書官のブライアン・ハイズマンにとっても、そのことは疑問の種だった。日米交渉は最悪の展開を見せているというのに、どうしてわが大統領はこんなに機嫌がいいのだろう。ハイズマンが至急電報を持っていった時も、大統領は相変わらず執務室の机の上で、爪《つめ》を磨きながらいかにも楽しそうであった。 「例のパウエルプランのブツが、ハワイまで届いたそうです」  ハイズマンは、電報をルーズヴェルトに差し出しながら言った。 「パウエルプラン?」  ルーズヴェルトは首を傾げた。 「何だったっけ?」 「あれですよ。トップシークレットの例の、日本のダイナスティの不当性を訴えるという」 「ああ、あれか。しかしあれは、挫折《ざせつ》したのではなかったかな」  ルーズヴェルトはそのように記憶していた。 「いえ。それを訴えるための必要なメンバーは、日本政府によって壊滅させられました。しかし証拠は残りました。例の宝です」 「その宝なるものというのは、そんなに価値のあるものかね? 例えば、ダイヤがはめ込まれているとか、ルビーがあるとか」 「いや。そういうものではありません」 「金でも銀でもない?」 「ええ、そうです。ブロンズのようです」 「そんなもので、果たして日本を引っ繰り返すことができるのかな。私は正直言って、疑問なんだよ。で、それがハワイまで来たって?」 「ええ。ハワイです。ハワイまでは民間航路で来ましたが、これからは軍艦に乗り換えさせますので安心です。もし敵が気づいていたとしても、もう襲われることはないでしょう。とりあえず、今スコット書記官はアリゾナにいるそうです」  と、秘書官は連絡メモを見ながら言った。 「アリゾナ?」  ルーズヴェルトの顔色が変わった。アリゾナというのは、もちろんアリゾナ州のことではなく、その州の名前から採った、真珠湾に停泊している戦艦のことである。 「スコットはアリゾナにいるのか?」 「はい」 「それはいかん」  ルーズヴェルトは思わずうわ言のように言った。 「早く脱出させるんだ。アリゾナは——」 「脱出? どういうことです? 何か不都合でもあるんでしょうか?」  ハイズマンが言うと、ルーズヴェルトははっと我に返ったように、 「いや、何でもないんだ。今のことは、忘れてくれたまえ」 「大統領」 「いや、何でもないと言っているだろう。とにかく、そのまま待機していてくれ」 「わかりました」  妙な顔をして、ハイズマンは部屋を出た。  ルーズヴェルトはドアが閉まるとほっとため息を漏らし、机の引出しからバーボンの小瓶を取り出すと一気にぐっと呷《あお》った。      六  スコット書記官は、軍艦アリゾナの士官《ガン》ルームにいた。このところ、目が覚めるのが早くなっている。船で少しずつ移動して日付変更線を越えたのだから、飛行機で移動したときのような時差ボケはないはずだったが、それにしてもどうも目が早く覚めてしまうのだ。時計を見ると、午前七時四十五分だった。軍隊の朝は早い。朝食は八時からのはずだ。スコットは眠い目を擦《こす》りながら立ち上がり洗面所で顔を洗おうとして、ふと机の上に目をとめた。そこには、梱包《こんぽう》を解いた古い銅の鏡と銅剣とそして不思議な曲がりくねった石でできたネックレスが置いてあった。別に封印もされていなかったので、スコットはここまで運んできたものがどんなものか見てみたいと思って、昨日の夜、酒に酔った勢いで開けてしまったのだ。それがそのまま机の上に放り出してあった。スコットは改めてその首飾りを首に掛け、鏡で自分の顔を覗《のぞ》いてみた。 (こう、持つのかな)  と、右手に剣を持ち、左手に鏡を持っていた。それを持つと、何か自分が偉い人間になったような気がした。ドアがノックされた。スコットは鏡と剣を机の上に置き、ネックレスを着けたままドアを開けた。当番兵に指名されたロジャーという名の兵士であった。 「いやあ、おはよう、ロジャー」  スコットは言った。 「おはようございます、書記官。食事をお持ちしました」  木製のプレートの上に、ハムエッグやトーストが並んでいた。 「なんだ、食堂に行ったのに。ルームサービスとは豪勢だな」 「いえ。書記官殿は特別なお客であると言われてますので。艦長命令です」 「じゃあ、そこへ置いてくれ」  と、スコットは言ったが、そのデスクの上に鏡と剣が置いてあるのに気がつき、慌ててそれをとった。 「書記官殿。それはいったい、何でありますか?」 「何に見える?」 「このあたりの原住民のお土産《みやげ》でしょうか」 「ハハハハ。お土産はよかったな。これはそういうものじゃないんだ。そういう失礼なことを言ったら、君、天罰が当たるぞ。これはもっと大切な王権の象徴なのさ」 「そうですか。自分にはそんなものには見えませんでしたが。いったいそれは、どこの国のものでありますか?」  ロジャーは言った。スコットがそれに答えようとした時、突然上空に爆音がした。それも一機、二機ではない。数機の爆音である。 「朝から演習か」  スコットは窓から外を見た。真珠湾の海面は鏡のように穏やかで、朝の光がまぶしく、騒音以外は何事もない。 「いえ。そんな予定は聞いていませんが」  そこまでだった。次の瞬間にその部屋に爆弾が落ちて、二人は吹き飛ばされた。二人はついに、自分の身に何が起こったのかも知らずに死んだ。それは、対米開戦を決意した日本海軍が、第一次攻撃隊として放った爆撃部隊の第一波攻撃であった。  その日、湾内にあった戦艦アリゾナ他五隻は、日本海軍航空隊の爆撃によって大破し、沈没した。第一次攻撃隊は直ちに、「我、奇襲に成功せり」という内容の暗号電報を打った。「トラトラトラ」がこれである。この知らせはまもなく、大本営海軍部発表として日本全土に公表され、日本中を熱狂の嵐に包んだ。遂に日本をさんざん苛《いじ》め、理不尽な言いがかりをつけたアメリカに対して、正義の鉄槌《てつつい》を下したのだというのが大方の国民の評価であり、そうであるからこそ国民の大多数は納得して、熱狂的な歓呼とともにこの事実を受け入れたのである。 「トラトラトラ(我、奇襲に成功せり)」という暗号電報はあまりにも有名である。だが、それとは裏腹に、その真珠湾奇襲直後、イギリス首相ウィンストン・チャーチルからアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトに送られた暗号電報のことは誰も知らない。その内容はこうであった。 「おろかな猿、ついに墓穴を掘る。ブラボー」  ルーズヴェルトも、その電文の趣旨にはまったく同感であった。これまで、まず不可能だと思っていた日本への宣戦布告が、この真珠湾攻撃によって可能になったのだ。アメリカの世論がどんなに戦争に反対しても、敵が先に手を出してきたのだ。防衛して何が悪いという理屈には勝てないだろう。実際、そうなっていた。かつてルーズヴェルトに対し参戦は絶対に許さないと主張していた平和団体、そして参戦どころかイギリスに武器を提供することさえ反対しホワイトハウス前で座り込みをしたような人々が、今こそ日本を撃つべしとホワイトハウスをけしかけていた。 (この戦争は必ず勝つ)  ルーズヴェルトは確信していた。負けるはずがない。他人の国の内情もよく知らずに、もっとも愚かなかたちで戦いを挑むような猿どもに、アメリカが負けるはずがないのである。 [#改ページ]   エピローグ  源義は、日本時間の十二月八日、運命の日、ちょうど品川区役所において学生のみの臨時徴兵検査を受けていた。結果は、第二乙種合格であった。そのために、國學院も繰上げ卒業になった。すぐに召集されることはなかったが、一年おいて昭和十八年(一九四三)の正月には早々と召集され、金沢市の輜重隊《しちようたい》に入隊した。ただし、この召集は僅《わず》か一カ月半で終わった。問題は、次にいつ召集されるかということであった。昭和十九年、二十年と戦局が格段に悪化する中、源義は『語り物文芸の発生』の研究に打ち込んだ。だが、心血を注いだその論文集は発行の直前、大空襲に遭い、ゲラ刷りを残してすべて消滅した。  八月。戦争は終わった。焼け野原の中の大惨敗であった。師、折口信夫は大戦の行方について、批判がましいことは一切口にしなかった。ただ、戦争が終わった時に、弟子たちにアメリカの一コマ風刺漫画を見せて、しみじみと言ったことがある。それは椰子《やし》のある南の島に、原住民らしい肌の黒い男がたくさんいる中、一人だけ越中褌《えつちゆうふんどし》を締めた肌の白い人間がいて、上陸したアメリカ軍に対してひとこと台詞《せりふ》を吐いているという図柄であった。その台詞が何とも痛烈なものであった。 「この連中が私のことを神と呼ぶのだ」  というのである。折口は苦笑するより、むしろ沈痛な面持ちでそれを弟子たちに見せた後、 「アメリカという国はこういうものを見て、我々への敵愾心《てきがいしん》を養っていたんだね」  と、ひとこと言った。それは折口の戦争に対する批判だったのかも知れない。折口は養子|春洋《はるみ》をこの大戦で失っている。 「戦に負けるということは、こういうことか」  と、源義はそのことを痛切に感じた。あれほど神州不滅などと言って、日本民族の優越性と日本国の卓越性を説いていた人間が、戦に負けるとすぐにアメリカ万歳と言いだし、かつて自分のしたことには何の反省もなく占領軍に尻尾《しつぽ》を振っているのが、源義には悔しくて堪《たま》らなかった。別に天皇中心の超国家主義を是とするのではない。ただ、民族の誇りというものは、そういうものの中にはなく、もっとしっかりしたかたちで受け継がれるものだと源義は確信していた。だが、世の風潮は、それとはまったく逆のものであった。源義は、教職をなげうつ覚悟を決めた。それまで折口門下の新進の国文学者として、地位を認められつつあった源義だが、そのことはもういいと思った。これからは、もっと大切なことがある。 「第二次大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対していかに無力であり、単なるあだ花にすぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短か過ぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及浸透を任務とする出版人の責任でもあった。一九四五年以来私たちは、再び振り出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌《こんとん》・未熟・歪曲《わいきよく》の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎をもたらすためには絶好の機会でもある。このような祖国の文化的危機にあたり、微力も顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発する」  源義の心中を具体的な言葉にすれば、この通りであった。  昭和二十年十一月十日。社長角川源義以下、わずか数名の出版社が東京板橋区小竹町の角川宅で産声をあげた。角川書店の誕生である。 [#改ページ]  この作品は一部実在の人物をモデルにしていますが、状況設定その他は基本的にフィクションであることをお断りしておきます。  なおこの作品を創作するのに、以下の書物を参考にさせていただきました。特に武田宗俊氏、藤本泉氏の両著作には大変お世話になりました。ここに記して感謝の意を表します。なお、金田一耕助のキャラクター使用について、快く許可された横溝家にも感謝の意を捧げます。 [#地付き](作者)   (参考文献リスト) 「源氏物語」山岸徳平校注 岩波書店刊 「源氏物語の研究」武田宗俊著 岩波書店刊 「『源氏物語』多数作者の証」藤本泉著(非売品) 「折口信夫伝」加藤守雄著 「折口信夫全集」中央公論社刊 「南帝由来考」中谷順一著(非売品) 「柳田国男」(日本文学アルバム)新潮社刊 「花あれば 角川源義追悼録」山本健吉編 角川書店刊(非売品) 本書は、一九九五年十月小社単行本として刊行された作品を、文庫化したものです。 角川文庫「GEN『源氏物語』秘録」平成10年10月25日初版発行